九十九里浜片貝海水浴場からは、海岸線に沿った九十九里有料道路にて海を眺めながらの快適ドライブとなる。
九十九里浜からの砂浜〜太平洋〜丸い水平線〜大空は、改めて地球の丸さ・大きさを感じさせ観ていて飽ない。
九十九里の水平線から登る日の出もまた素晴らしい!海から昇る真っ赤な太陽を露天風呂から眺めれば極楽だ。
日の出(残念ながら雲間から)
玉前神社
九十九里有料道路出ると、一宮町に上総国一之宮「玉前神社」が鎮座しているので、恒例につきご参詣していく。
玉前神社は1200年以上の歴史がある格式高い古社で、ご祭神として神武天皇の母君・玉依姫命が祭られている。
古代から「上総の裸まつり」等の浜降り神事も行われ、女性の守護神社として縁結びや安産などにご利益がある。
一の鳥居
三ノ鳥居
さざれ石
本殿参拝
本殿に参拝して、授与所にて御朱印をいただいたら、本殿西奥にある「はだしの道」を裸足になって3回廻󠄂る。
ご参拝が済んだら、参道口にある和菓子店にて、旅のお供の甘味を買い求めたら、海岸線道路に出て南下する。
外房海岸
一宮町を過ぎたいすみ市の太東崎にて砂浜「九十九里浜」は終わり、以南は外房の変化に富んだ海岸線となる。
太東崎から房総半島先端州崎までの外房海岸線には、美しい海岸景勝地と共に有名な観光施設が連続して在り、
巨大な温泉宿も建ち並んでいる。そんな景勝地を寄り道観光しながら、房総半島先端の都市「館山」まで走る。
外房には何度となく来ていて初めての場所は少ないが、太東港を過ぎ地元道を海岸に出ると「夫婦岩」がある。
津々が浦の夫婦岩
八幡岬公園
太東崎を過ぎたら、御宿を通り越し、勝浦の市街地の南東にあり、かつて勝浦城があった海に突き出た八幡岬。
八幡岬突端は公園として整備され、展望デッキから雄大な太平洋と勝浦灯台、勝浦湾を一望することができる。
八幡岬から勝浦灯台
旧遠見岬神社の海中鳥居
勝浦湾対岸の海中公園
八幡崎公園駐車場から勝浦灯台〜官軍塚を見学して、国道に戻る。
勝浦灯台から八幡崎
勝浦灯台
魚見塚展望台
勝浦から鴨川まで走り、鴨川海岸の先にある鴨川漁港の内陸側小高い丘にある魚見塚展望台へ寄り道していく。
鴨川繁華街を過ぎ隧道を抜けた先を左折し、さらに細脇道を上がると魚見塚一戦場公園駐車場があるので駐車。
かつて、漁師達が沖合いにくる魚の群れを見張っていたことから名付けられた「魚見塚展望台」へ徒歩で行く。
地元道を進むと、コンクリートのスロープ階段が現れ、上り詰めると正面に誓いの丘展望台と女神像が現れる。
誓いの丘
女神像
左手に鴨川繁華街を望む
右手に仁右衛門島方面
誓いの丘をさらに進むと魚見塚浅間神社があるのでご参拝
「キョン」発見! 南房総に大繁殖しているという「キョン」がいた。どこ?
野島崎
鴨川から館山に向け海岸線を走ると、房総最南端の地「野島崎」があるので、最南端の先っぽまで行ってみる。
房総最南端の地〜野島崎灯台
絶景「朝日と夕陽の見える岬」南房総白浜サンライズPoint
安房神社
海岸沿いを館山市に入ると、日本三大金運神社の一つで今年最大の金運スポット安房国一ノ宮安房神社に参詣。
安房神社「上の宮」の主祭神は、日本における全ての産業の総祖神とされる「天太玉命」(アメノフトダマノミコト)。
大鳥居
上の宮本殿
下の宮
今年最大の金運スポットに参拝したので、今年の金運は大丈夫?かな?
と、信じて、今宵の宿「たてやま温泉」へ。
明日は、内房から東京都心を経て帰ろう。
]]>
九十九里へ
東国三社参りを済ませたら、利根川河口の銚子市へ向かう。香取神社から3km程走った沿道にちょっと気になっ
ていた朱色鳥居の稲荷神社があるので寄り道して参拝。関東三大稲荷と言われているらしい多田朝日森稲荷神社。
多田朝日森稲荷神社
銚子市
銚子市は、住まう群馬県より流れ出る利根川河口の南、関東最東端に位置し、全国屈指の水揚数量を誇る銚子漁
港を擁する国内最大規模の水産都市。香取市から銚子へは、利根川沿いを行けば良いのだが、最短時間ルートは
利根川と常陸利根川間の中州→合流地点からは茨城県側を走り、河口近くで銚子大橋を渡り銚子市街地に入る。
先ずは、市中心に建つ坂東三十三ケ所観音霊場二十七版札所の飯沼観音・圓福寺を参詣し旅の安全を祈願する。
飯沼観音・圓福寺
飯沼観音
銚子大仏
五重塔
参詣が済んだら、近くの丼屋七兵衛にて銚子港であがった新鮮な青魚をつかった「極上さば丼定食」を味わう。
極上さば丼
犬吠埼
満腹となったら、最東端に突き出た犬吠埼へ。犬吠埼は、三方を海に囲まれた海食台地で、断崖絶壁の下にある
無数の岩礁に荒波が砕ける絶景地。岬先端に白亜の犬吠埼灯台が建ち、銚子観光のシンボル的存在となっている。
犬吠埼灯台
灯台地上高31m
灯台下岩礁
海食海岸
君ヶ浜を望む
屏風ヶ浦
犬吠埼から海岸線を行くと、銚子市から旭市刑部岬まで約10kmに渡り40m〜50mの断崖が続く屏風ヶ浦がある。
切立った連続する断崖は、英仏海峡ドーバーの白い壁にも匹敵するといわれ「東洋のドーバー」?とも呼ばれる。
断崖絶壁
屏風ヶ浦東端は、銚子マリーナの先で観ることができるが、崖上部を走るドーバーラインから観ることができない。
屏風ヶ浦
屏風ヶ浦最西端の刑部岬には、飯岡灯台や飯岡刑部岬展望館があり断崖の一端と太平洋を眺めることができる。
飯岡灯台
刑部岬で絶壁の海岸線は終わり、飯岡漁港からは海岸線は砂浜に変わり、「九十九里浜」が始まる。
刑部岬から飯岡漁港〜九十九里浜を望む。
九十九里浜
九十九里浜は、旭市の刑部岬からいすみ市の太東崎まで及ぶ、太平洋沿岸に面する全長66km日本最大級の砂浜。
全域が千葉県立九十九里自然公園に指定されており、日本の白砂青松100選、日本の渚百選に選定されている。
飯岡漁港より九十九里ビーチラインを南下するが、走行中は海岸線が見えないので、九十九里浜のほぼ中央の
九十九里ビーチタワー(不動堂海水浴場)に寄り道して、海岸にでて冬の九十九里浜の波飛沫を観じてみる。
九十九里浜で強烈な海風をあびたら、今宵の宿にチェックインして、海鮮料理と熱い温泉を楽しむことに。
明日は、外房を館山へ
]]>
東国三社は、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、神栖市の息栖神社、千葉県香取市の香取神宮の三社をまとめた呼び名。
鹿島→息栖→香取各間は直線10km程の距離で直角2等辺三角形をなし、中では不思議な事が起こると言われる。
江戸時代には「下三宮参り」や「お伊勢参りみそぎ参り」と呼ばれ、伊勢神宮の帰りに立ち寄る慣習があった。
この三社参りのご利益がとてもすごいと、当時から相当な人気を誇り、現代に至っても運気を上げたい多くの
人々が訪れる関東屈指のパワースポットとなっている。
そんな東国三社参りを、今年も年明け早々、3年連続で詣でてきたので記録と記憶に残すためブログにアップ。
先ずは、茨城県の鹿島神宮を目指して、早朝に自宅を出発して、伊勢崎ICより北関東道→東北道→北関東道と
乗り継ぎ、最終鉾田ICを下りて、北浦東岸沿いを走れば3時間ほどで、常陸国一ノ宮鹿島神宮に着く。
鹿島神宮
大鳥居脇の第一鹿島神宮駐車場に車を駐めたら、大鳥居をくぐり境内へ
鹿島神宮大鳥居(二ノ鳥居)
参道を行けば楼門、鹿島神宮の楼門は日本三大楼門の一つ
先ずは右手の本殿参拝
鹿島神宮の創建は紀元前660年、日本最古の東国三社の一つで御祭神は「武甕槌大神(タケミカヅチノカミ)」
雷、剣、相撲の神、地震の神とも崇められ、日本に地震を引き起こす大ナマズの頭を押さえつけるとされる。
今年は、昨年まであった「令和の大改修」の足場も外れて、改修された美しい本殿が現れている。
本殿参拝が済んだら、さらに直進して奥参道入り口より広い「樹叢(じゅそう)」と呼ばれる鹿嶋の森をいく。
奥参道
広い奥参道を進むと、左手に「鹿園」があるが横目で眺めて直進すると、突当たりの右手にある「奥宮」参拝。
奥宮の左を進むと、武甕槌大神がナマズの頭を押さえつける石碑。
御祭神の「要石」。
要石
大ナマズの頭を押さえるのは鹿島神宮の凹の要石で、尻尾は利根川越えた香取神宮の凸の要石と言われている。
要石を拝んだら奥宮に戻り、コンクリート舗装の林間道を下ると甘味処があり、その先に御手洗池がある。
御手洗池
この御神水に大寒20日には多くの信者が禊ぎを行う。昨年は見ることができたが、今年は日が合わなかった。
御手洗池の側の甘味処で、鹿島神宮献上酒「神の池」を購入して、本殿に戻り社務所にてご朱印を頂き、次なる
東国三社「息栖神社」に向かう。
息栖神社
息栖神社は、2000年以上の歴史をもち、東国三社の一つと称されることから、古来より多くの文人墨客が訪れ、
水上交通が盛んな頃は息栖河岸とともに賑わいを創り出してきた。息栖神社の主神は久那斗神(くなどのかみ)、
相殿に天鳥船神(あめのとりふねのかみ。交通守護の神)、住吉三神(海上守護の神)を祀っている。
一ノ宮の鹿島神宮、香取神宮に比べると規模、格とも劣る気はするが前面に東国三社を謳うのは息栖神社のみ。
息栖神社二ノ鳥居前の駐車場に車を駐めたら、先ずは二ノ鳥居をくぐり境内参拝へ
参道を進むと神門
正面に社殿
社殿参拝、ご朱印受領が済んだら、常陸利根川船溜り沿いにある一之鳥居へ。
大鳥居の両側には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる四角い井戸があり、この井戸が息栖神社の主神「久那斗神
(くなどのかみ)」。日本の神様の中でも珍しい"井戸の神様"。
忍潮井
常陸利根川堤防から船だまり〜大鳥居〜息栖神社
霞ヶ浦・北浦より流れ出る常陸利根川、この後利根川本流と合流する。
常陸利根川、利根川を渡り千葉県香取市の香取神宮へ向かう。
香取神宮
下総国一ノ宮香取神宮は、全国に約400社ある香取神社の総本社、歴史は2,600年前に遡り伊勢神宮、鹿島神宮
と並んで神宮の名称を使用することを許可された由緒正しい神社。
ご祭神は「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」を祀り、古くは武運を祈願する神様として、現在は家内安全・
交通安全・縁結び・安産など、幅広いご利益がある神様として信仰されている。
鹿島神宮と共に守護神として関東を守っていて、千葉県最強の霊力を持っているパワースポットと言われている。
表参道商店前の第1駐車場が混んでいたら、旧参道を登り楼門近くの第2駐車場に駐めるのが通、参拝開始する。
楼門
本殿拝殿参拝。
参拝が済んだらご朱印を頂き、本殿脇を奥に進み茶屋「寒香亭」で一休み。
だんごと甘酒
一休みしたら、参道を二ノ鳥居まで下る。
総門
表参道
奥宮
香取神宮要石凸
大鳥居(二ノ鳥居)
これで東国三社参り完了、今年も運気アップは間違いない!!
東国三社参りの後は、利根川沿いを銚子に向かい美味い魚を食そう。
]]>
そして 群馬 へ帰る
あじ温泉
四国旅最後の宿泊地は。四国最北端となる庵治半島先端近くの一軒宿「あじ温泉庵治観光ホテル海のやどり」。
昨日が山奥の秘境宿「祖谷温泉」だったので、今日は高松市に近い海辺の温泉宿で海鮮を食べようと宿泊した。
鯛のかぶと煮
あじ温泉は、庵治半島先端の江の浜漁港を見下ろす高台に古くから建つ温泉宿で、瀬戸内海の眺望が素晴らしい。
部屋からも、近くの鎧島〜兜島から豊島や小豆島が見渡せ、行き交う漁船や高松から関西への旅客船が見える。
江の浜漁港
鎧島〜兜島から
海鮮料理も、新鮮な刺身、鮑やサザエ等々とても美味い、難点は量が多いことと、施設がちょっと古いことか?
四国最北端
早朝温泉にて身を清め、朝食を済ませたら、早めに宿を出て、2km東にある四国最北端「武居岬」に行ってみる。
県道より細い道を左に折れると、すぐに正面に瀬戸内海、手前の防波堤に「四国最北端」の碑が取付けてある。
ちょっとしょぼいが、今回四国最東端〜最南端〜最北端の地を踏んだ。最西端の愛媛県「佐田岬」は、かの昔に
行ったことがあるので、これで四国東西南北四端制覇ということに。写真を撮ったら、次なる「屋島」へ向かう。
四国最北端「武居岬」
よく走りましたNX
屋島
屋島は、高松市の北東、庵治半島との間にある南北に長い台地状の地で、名称は屋根のような形状に由来する。
江戸時代まで陸から離れた島だったが、その後に始まった塩田開発と干拓水田により埋立てられ陸続きになった。
山上からは波穏やかな瀬戸の海と一体となった高松市街や多島美が一望でき、山上に四国霊場第84番札所の南面
山 千光院「屋島寺」や世界的にも珍しい山頂の水族館「新屋島水族館」等があり、屋島スカイウェイからの眺望
も素晴らしい。屋島スカイウェイを上りきり、屋島山上観光Pに駐車し、展望台を目指して歩き出す。
屋島展望台に行くには、屋島寺を通り抜けて行くので、四国最終日にして始めて四国霊場札所にご参拝する。
屋島寺門
屋島寺赤鳥居
屋島寺を抜け、左に進んで両側の土産物屋を過ぎると、正面に高松港や瀬戸内海の島々を見下ろす獅子の霊巌展
望台となり、右手に独創的な建物の「やしまーる」、左にはオシャレな「れいがん茶屋」が現れる。
高松港
高松市街
獅子の霊巌展望台から、高松市街地を始め男木島や女木島など、瀬戸内海の抜群の眺望を満喫できる展望できる。
「やしまーる」は、2022年8月にオープンした高松市屋島山上交流拠点施設で、ガラス張りの回廊に展望台やカ
フェ、パノラママアート館などが併設されている。入場無料のようなので、中に入り一通り見て回るが、奇抜な
デザインは面白いが、機能的か役に立つかは??
やしまーる外観
やしまーる外観
やしまーる回廊
やしまーる回廊
屋島神社
屋島スカイラインを下り、麓にある讃岐東照宮 屋島神社に参拝する。屋島神社の祭神は徳川家康と松平頼重。
駐車場が一杯なので、人気の神社かと思ったが参拝者は他になし。隣接の四国民家博物館(四国村)客らしい。
屋島神社
屋島神社拝殿から
屋島神社の参拝を終えたらいよいよ帰路につくが、まだ昼前なので淡路島に上陸し洲本城を見ていくことにする。
屋島から洲本城へは、約100km、国道11号より高松自動車道に入り、鳴門JCTから神戸淡路鳴門道を進み大鳴門
橋を渡れば、これで四国とはお別れ。洲本ICで高速を出て、洲本市街地に進めば高台に洲本城天守が見えてくる。
洲本城
洲本城は、大永6年(1526)、三好氏の重臣・安宅治興が築城し、その後、羽柴秀吉により城主となった脇坂安
治が、城の大改修を行い、天守を造営するとともに、現在も遺る石垣の大改修をし、「登り石垣」が築かれた。
脇坂氏が伊予大洲に移った慶長14年(1609)、事実上の廃城となるが、その威容は、今なお保ち続けられている。
石段
現在ある天守擬きは、1928年(昭和3年)に、RC製で築造されたもので、模擬天守としては日本最古のもの。
天守が現れる
遠目で見ると天守閣のようだが、展望台として造られたらしい。現在、階段が取り外され、登ることは不可。
洲本城展望台
洲本城址展望台から洲本市を望む
月見台展望台から紀伊水道を望む
洲本城 模擬天守
洲本城からの展望を楽しんだらいよいよ自宅へと帰途につく。洲本市内でGS給油して、昼食を調達したら出発。
帰路は約580km、洲本中央ICから神戸淡路鳴門道に入り、明石海峡大橋を渡れば本州となり、神戸を抜けるのに、
往路と異り、右回り海岸沿いの阪神高速3号から名神高速西宮線を走り、吹田JCTからは往路と同行程にて帰る。
12:00に洲本城を出発し、途中2〜3回の休息を入れて、8時間弱の運転に群馬県の自宅に到着、お疲れ様でした。
総走行距離2,425kmを一人運転、愛車LEXUS NXもよく走りました。3年乗ったNXはもうすぐ新車に入れ替える。
次は新車でどこへ行くか計画しよう!四国へも機会があれば訪れ、酷道険道を走り四国の魅力を味わいたい!!
長かった四国一周旅もこれで 終わり
]]>
国道32号(319号)を吉野川沿いに走ると、池田ダムがある。池田ダムは上流の早明浦ダムとと連携し、吉野川総
合開発の要として香川用水と吉野川北岸用水に分水する役割を担うなダムで「四国のかなめ」とも呼ばれている。
四国のかなめ「池田ダム」
型式:重力式コンクリート、高さ:24m、堤長:247m、総貯水容量:12650千m3、有効貯水容量:4400千m3
金刀比羅宮
池田ダムを過ぎると、国道は左に曲がり北上し徳島県と香川県との県境に位置する讃岐山脈を新猪ノ鼻トンネル
にて抜けると香川県となる。さらに国道を13kmほど進み琴平町となり、左に折れると金刀比羅宮前に到着する。
金陵の郷(金陵酒造)裏の広い駐車場に車を駐め、金陵の郷を抜ければ金刀比羅宮表参道となる。参道には土産
物屋や飲食店、宿泊施設が建ち並び、多くの観光客・参拝者で賑わう。
レトロな温泉宿敷島館
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山に鎮座する神社で、明治初年の神仏分離以前は
金毘羅大権現と称していて、明治初年以降に神社になってからの通称は「金比羅さん(こんぴらさん)」。
御本宮の御祭神は、大物主神と崇徳天皇で、古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として信仰されている。
石段1,368段目の山中に、金刀比羅本教の教祖である厳魂彦命をお祭りする厳魂神社(奥社)が鎮座している。
いよいよ階段上りが始まる。
100段
一の坂鳥居113段
大門365段
大門を過ぎると神域となり、参道両側の土産物屋が無くなり、両側には石塔が建ち並ぶ。
桜馬場を歩き、桜馬場西詰銅鳥居431段
階段を上って477段、木馬社500段、鳥居をくぐり、階段を上り詰めれば旭社があるのでご参拝、旭社前628段
賢木門をくぐり、手水舎652段
さらに階段を上りきって、金比羅宮御本宮が眼前に現れる。
御本宮785段
本宮前広場より瀬戸内海を望む
先ず、御本宮に参拝したら、さらに奥社を目指し、本宮右手より参道を進む。
奥社への参道
奥社への参道は、参拝者も減り、木立の中となり日陰となるので歩きやすく、早足にて進む。
白峰神社923段
途中、急な石段もあるが、一人道となったので、さらに進むと奥社:厳鬼神社が見てくる。
奥社:厳鬼神社
厳鬼神社までの1368段それほどのこともなかった。ご参拝したら、ご朱印を受領し、御本宮に戻る。
御本宮に戻り、改めて参拝し、ご朱印を頂き、本宮隣の三穂津姫社にご参拝して、帰りルートから下り始める。
御本宮側面
奥社から1368段の石段を下りきり、金陵の郷にてお手頃な純米酒を買ったら、次なる目的地「丸亀城」を目指す。
丸亀城
金比羅さんより、再び国道32号に出て、丸亀市に入り、国道より瀬戸内海側に少し行ったところに丸亀城がある。
丸亀城は、丸亀市街地南部の亀山(標高66m)に、ほぼ四角形で亀山の廻りを内堀で囲む、渦郭式平山城である。
室町時代に築かれた砦跡に慶長2年(1597年)、豊臣政権時代の生駒親正が亀山に築城した亀山城がはじまり。
元和元年(1615年)の一国一城令で亀山城は廃城になっが、寛永20年(1643年)山崎家治が幕府の許可を得て再建に
取りかかり、京極高和氏が完成させた。
現在の天守は、万治3年(1660年)に御三階櫓として建造された独立式層塔型三重三階。天守は高さ14.5mと小さ
いが、内堀から四層に積み重なった石垣の上に建てられている。江戸時代以前に建造された現存12天守の一つ。
内濠内の西側の丸亀城Pに車を駐めて、北側中央にある大手門までに歩く。
城内側の櫓門 大手一の門
堀端の高麗門 大手二の門
大手門からちょっと急な「見返り坂」を上り、右折し石段を登り切れば三の丸、二の丸と行くと本丸となり天守が現れる。
丸亀城天守閣
姫櫓跡からの天守閣
天守閣より瀬戸内海を望む
丸亀城見学が終わったら、国道に出て高松市の栗林公園へ向かう。
栗林公園
栗林公園(りつりんこうえん)は、高松市紫雲山の東麓に所在し、紫雲山を背景に、6つの池と13の築山を配し、
400年近い歴史を有する、国の特別名勝に指定された回遊式大名庭園で、県立都市公園として運営されている。
面積は約75haで文化財庭園では、国内最大の広さである。
16世紀後半は地元豪族・佐藤氏の小さな庭が、1631年頃生駒家の家臣・西嶋八兵衛が手掛けた治水工事により、
広大な庭園の基礎が築かれ、1642年から高松を治めた初代高松藩主・松平頼重にも引継がれ、1745年5代藩主・
頼恭により完成。以来、歴代藩主が修築をし、明治維新までの228年間、高松松平家下屋敷として使用された。
明治8年(1875)に県立公園として一般公開され、昭和28(1953)年には名勝地として「特別名勝」に指定された。
丸亀城より30km程で栗林公園に着くが、国道11号沿い東門Pが満車のため、北門Pに駐車し北門から入場する。
北門
北門より入城したら、左手の券売所にて入場料を支払い、商工奨励館から庭園内を回廊する。
商工奨励館
北湖
北湖のスッポン
南湖
偃月橋
芙蓉峰から北湖を望む
飛来峰から南湖を望む
栗林公園を堪能したら、海沿いの玉藻公園(旧高松城)に行くが高松城址に天守閣がないので石垣を車窓から見て、
今宵の宿泊地「庵治温泉海のやどり」へ向かう。
明日は、香川から淡路島へ そして群馬へ帰る。
]]>
ホテル祖谷温泉
かずら橋駐車場から、祖谷川沿いの狭あい道路を8kmほど下ると、道路沿いに秘境「祖谷渓」の断崖絶壁の頂き
を走る道沿いにある一軒宿「ホテル祖谷温泉」に着く。
祖谷渓
「祖谷渓」は、祖谷川による深いV字谷の続く渓谷で、祖谷谷、祖谷渓谷とも言われる。祖谷川は、徳島県三好
市東祖谷付近の徳島県最高峰剣山(標高1,955m)に水源があり、東祖谷からかずら橋のある西祖谷を経て大歩危
峡の北端で吉野川に注ぐ、延長約54kmの吉野川支流だ。源流付近から国道(酷道)439号が沿川を通り、東祖谷新
居屋からは県道(険道)32号が沿川を通る。かずら橋までは酷道、険道の名の通り狭あい道で、かずら橋付近は整
備された二車線道路となるが、西祖谷山村からは再び狭あい道となり、祖谷温泉を経て吉野川合流地点まで続く。
祖谷温泉は、祖谷渓の頂部にあり絶景地であることと、祖谷渓谷底の祖谷川縁に露天風呂があることで名高い。
四国で唯一の「日本秘湯をまもる会」の会員宿で、四国で珍しい源泉かけ流し温泉は祖谷温泉と道後温泉だけだ。
そして、高低差約170mの谷底露天風呂まで、傾斜角42度の断崖を約5分かけ、ゆっくりと大パノラマの景色を一
望しながら下っていくケーブルカーが唯一方法で、SNSやメディア露出も多い人気秘境温泉。予約も取りづらく
希望日に泊まるには早めの予約が必要だ。今回予約した月見台付客室「月雫」も半年前に予約したほどだ。
そんな祖谷温泉に早く入りたくて、早めにホテルにチェックインし、一休みしたら早速温泉へ行くことにする。
先ず、内湯「雲遊天空の湯」で身を清めた後、いよいよケーブルカーにて谷底の源泉掛け流し露天風呂へ行く。
内湯「雲遊天空の湯」
ケーブルカー乗り場は、展望テラスとなっていて、待ち時間には祖谷川下流側の祖谷渓を一望することができる。
ケーブルカー乗り場
展望テラスから祖谷渓を望む
ケーブルカーは、ホテル側は係員がいるが、谷底露天風呂は無人、ケーブルカーは自動運転で乗客が発車ON。
谷側最前列に座ると、スイッチONできる特典付き
そろそろ到着
ケーブルカーには、女性客や外国人家族連れが何組かいて人気の高さが判る。が、露天風呂は独り占めだった。
祖谷川に面した露天風呂は、男湯、女湯、貸切風呂と3つの浴槽があり、男湯と女湯は一日交替となっている。
今宵は、下流側露天風呂「せせらぎの湯」
せせらぎの湯
宿泊部屋の月見台からの眺めも素敵で、夜は静寂の中で、早朝には祖谷渓にかかる朝靄を眺めることができる。
月見台
月見台から朝靄の祖谷渓
早朝目覚めたら、早速温泉へ。朝も先ずは内風呂で身を清め、始発のケーブルカーにて祖谷渓谷底露天風呂へ。
今日の男湯は、真ん中の細長い「渓谷の湯」
渓谷の湯
谷底から、崖上のホテルに戻るとき、ケーブルカーがいなければ、ボタンを押してケーブルカーを呼ぶことに。
露天風呂側乗り場
ケーブルカーが下りてくる
朝食後食休みしたら、再びケーブルカーに乗って谷底露天風呂へ、
祖谷川の畔から露天風呂施設
祖谷川
温泉宿では、通常到着日の夕食前と後、出発日の朝食前と後の計4回温泉に入るが、祖谷温泉では内風呂2回が
増えて、計6回の温泉入浴となった。ケーブルカーも計4往復8回乗車、内6回は最前列にて運転手ができた。
小便小僧
祖谷温泉を十分堪能したら10:00に出発、祖谷渓沿いの県道32号を下り、宿から300m程下流の「小便小僧」へ。
狭あい道路沿いに駐車スペースがあり、カーブ頂点の断崖から突き出す谷底まで約200mの岩の上に、かつて地元
の子供達や旅人が度胸試しをしたという逸話をもとに昭和43年(1968年)に作られた「小便小僧」が立っている。
小便小僧
小便小僧
小便小僧から谷底を
さらに狭あい道路を下ると、祖谷渓展望台がある。展望台からは、祖谷渓を下流側から眺望することができる。
祖谷渓展望台から
さらに下ると、祖谷川の吉野川合流地点付近では民家も増え道幅が広くなり、祖谷口橋を渡れば国道32号となる。
快適な国道32号にて、吉野川沿いを池田町まで進み、吉野川に別れを告げ北上して、県境を越えて香川県となる。
]]>
道後温泉から
宿泊ホテルの温泉に早朝入り体を清め、朝食後にまた入り温まったら、道後温泉本館付近の観光に出かける。
屋上露天風呂「星の湯」
道後温泉本館を望む(茶玻瑠10F湯上り処から)
チェックアウト前に、伊予鉄道後温泉駅付近まで散歩、「坊ちゃんカラクリ時計」や「坊ちゃん列車」を見て、
L字型の道後商店街を戻りながら土産物を買い、道後温泉別館 「飛鳥あすか乃の湯」「椿の湯」を見学する。
坊ちゃんカラクリ時計(am9時のカラクリ)
坊ちゃんカラクリ時計
坊ちゃん列車
伊予鉄道後温泉駅
道後温泉別館 「飛鳥あすか乃の湯」
チェックアウトしたら、高台にある「伊佐爾波神社」に車で行き参拝し、ご朱印受領したら来島海峡へ向かう。
伊佐爾波神社
伊佐爾波神社への石段(車で来ないと石段上り)
来島海峡
道後温泉から瀬戸内海沿い国道196にて、今治市「来島海峡展望館」を目指す。国道分岐し高縄半島の海岸線を
進むと、今治市の誇る来島ドッグや今治造船など日本有数の造船所がある。半島先端付近の来島海峡展望館から
は、広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ全長約60kmの自動車専用道路「瀬戸内しまなみ海道」四国側入り口で
ある「来島海峡」と「来島海峡大橋」を展望することができる。いつかは「瀬戸内しまなみ海道」を走りたい!
来島海峡の碑
来島海峡大橋
来島海峡
来島海峡
展望館から、高縄半島東海岸線を今治市中心部にある「今治城」へ向かう。
今治城
今治城の地は、瀬戸内海に面し「吹揚の浜」と呼ばれた砂丘地帯で、関ヶ原の戦いでの戦功にて徳川家康より伊
予半国20万石を領した藤堂高虎が、この地に築城いた大規模な平城(海城)で、別名「吹揚城」とも呼ばれる。
藤堂高虎像
本丸
慶長7年(1602)に築城を始め、建造物も含めて完成したのは同13年頃と推測される。海水が引かれた広大な堀
や、城内港として国内最大級の船入を備えた日本屈指の海城で、寛永12年(1635)より久松松平氏の居城となる。
今治城天守閣
天守閣から瀬戸内海を望む
明治維新後廃城令により造物のほとんどが取り壊され、内堀と主郭部の石垣を残すのみとなったが、昭和28年(1
953)県指定史跡となり、昭和55年(1980)以降、主郭部跡に天守、櫓、門などが再建され雄大な城郭を見せている。
今治城本丸内の天守入り口に鎮座する「吹揚神社」に参拝し、ご朱印を受領したら、次なる目的地へ出発する。
今治より海岸線を進み、国道196から今治小松道路を走り、高縄半島の根元「西条市」より再び四国山地に入る。
吉野川源流へ
瀬戸内海燧灘に注ぐ「加茂川」沿い国道194そらやま街道を遡り、道路沿いの川は途中から「谷川」となるが、
国道194を分岐より10kmほど上る「止呂峡」を見る。止呂峡は加茂川源流となる支流谷川にある。
止呂峡入り口
止呂峡下流
高知県境の四国第一の河川「吉野川」 源流付近を目指す。吉野川源流は、愛媛県西条市と高知県吾川郡いの町
に頂を有する瓶ヶ森(標高1896.2 m)より湧き出で、いの町白猪谷を最源流とする。四国山地南側を東へ流れ、
その後高知県大豊町で向きを北に変え、四国山地を横断し、徳島県三好市池田町で再び東へ流れ、今回の四国
一周旅初日に訪れた「徳島市」で紀伊水道に注いでいる。
流域面積は、四国面積の約2割にあたる約3750 km2あり、四国で唯一水流が四国4県に及ぶ四国最大の水系だ。
止呂峡より国道194を8km程上り、高知県境の寒風山トンネルを抜けると分水嶺を越えて吉野川水系山地となる。
トンネルを出ると吉野川支流の桑瀬川沿道となり、いの町葛原から吉野川本流沿いの県道17を左折し、吉野川に
沿い「早明浦ダム」に向けて走る。そして、ここからが四国名物の酷い狭あい道路となる。早明浦ダムまでは、
国道分岐から約33kmの蛇行する険道:狭あい道路で、土佐郡大川村に入るとダム湖となり両岸に道路が走るが、
大川村役場が接する県道(険道)17号を走り続ける。
早明浦ダム
大川村役場を過ぎてしばらく走ると、上吉野川橋を渡りダム湖の対岸へで、やがて早明浦ダム堤体入り口に着く。
しかし、着いてみるとダム管理事務所入り口で通行止め、なんと本年4月1日から早明浦ダム再生事業のため、
ダム堤体へは進入禁止となっている。せっかく狭あい道を走りここまで来たのにと残念だが、情報収集が不十分
だったと諦めるしかない。ダムカードは道の駅「土佐さめうら」でもらえると、交通整理のおじさんに教えても
らうが、ダム堤体からダム湖が見られないなら意味も無く、遠回りにもなるのでダムカードも諦めることにする。
しかたないので、ダム堤体下に下り、広場より早明浦ダムからわずかに放流されている吉野川を見て次に向かう。
早明浦ダム堤体
早明浦ダムは、一級河川・吉野川本流の上流部に建設されたダムで、(独)水資源機構が管理する多目的ダムだ。
型式:重力式コンクリートダム、高さ:106.0m、総貯水容量:3億1600万m3、有効貯水容量:2億8,900万m3、
利水容量は1億7300万m3、吉野川水系における水資源施設の中核をなす四国地方最大のダム。吉野川治水と四国
地方全域の利水を目的に建設され、四国の経済・市民生活に多大な影響を及ぼし「四国のいのち」とも呼ばれる。
大歩危峡
早明浦ダムから再び国道439号にて吉野川沿いを下流に走り、国道32号に分岐し計40km程で、大歩危峡に至る。
大歩危峡(おおぼけ)は、吉野川中流域に位置する渓谷で、国の天然記念物・名勝に指定され、剣山国定公園に含
まれている。夏季は、ラフティング・カヤック愛好者を集めるほか、百年以上の歴史がある大歩危峡遊覧船で知
られ、数km下流の小歩危(こぼけ)と共に、大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)と一括りに呼ばれ名が知れる。
大歩危峡遊覧船乗り場に到着したが、時間が無いので遊覧船は諦め、大歩危峡を展望所から眺めて渓谷美を堪能。
遊覧船乗り場
大歩危峡
大歩危峡下流
碑
祖谷のかずら橋
国道32号を少し戻り、大歩危橋を対岸に渡り12kmほど走ると三好市西祖谷山村にある「祖谷のかずら橋」に着く。
平家一族の哀話を秘める、秘境“祖谷渓”にある日本三奇橋のひとつ「祖谷のかずら橋」は、重さ約6トンのシラクチ
カズラで作られた吊り橋で、昔は渓谷地帯唯一の交通道で、3年毎に架け替えられている。
現在は、大型バスやマイカーで、国内外から訪れる人気観光スポットになっていて、近傍にはかずら夢舞台という
大型物産館を併設した市営駐車場が整備されている。が、より近く周辺最安値の滝美Pに駐車し、かずら橋へ歩く。
かずら橋と平行して祖谷川に架かる祖谷渓大橋より、かずら橋全景を眺める。(長さ45m・幅2m・水面上14m)
かずら橋全景(祖谷渓大橋から)
かずら橋を渡るには、渡り口にて料金(JAF割JPY550→JPY500)を支払い、順序よく一方通行にて渡り始める。
厳寒な冬の山野で採取したシラクチカズラを編み連ねて作られた橋は、橋床は7〜8?φ木材が等間隔に取付けら
れていて、隙間から14m下谷底が見え、長さ45mの吊り橋の揺れと相まり、渡る人に適度なスリルを味わえる。
かずら橋は、団体ツアー客もいるため賑やかで落ち着かないが、渡るならサンダルやヒールはやめた方が良い。
日本三奇橋にも数えられるかずら橋の由来には諸説あり、平家の落人が追手から逃れるために切り落とせるよう
に作ったとする説や四国を巡行された弘法大師が困っている村人の為に作ったという説などが伝えられている。
かずら橋を渡り切ったら、少し上流側に歩くと、高さ約40mの「琵琶の滝」がある。その昔、平家落人が京の都
をしのび、この滝で琵琶をかなで、つれづれを慰めあっていたことから名付けられたと言い伝えられている。
琵琶の滝
急峻な四国山地にある祖谷地域は、屋島の合戦に敗れ逃れた平国盛と安徳帝の一行が、平家再興を願い土着した
と伝わる集落で、近代まで外部との交通隔絶され、古来の生活様式や独特風俗が原形に近い状態で残されている。
上流側から
祖谷のかずら橋にて祖谷渓秘境を感じた後に、夢舞台にて土産物を物色したら、今宵の宿泊地祖谷温泉へ向かう。
]]>
松山城
下灘駅から海岸線を東に向かうと松山市に入り、30km程にて松山城に到着する。松山城は、松山市の中心部にあ
る標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、観光客はロープウェー・リフトを利用して行くのが一般的だが、
やはり本丸登城には、文字通り二の丸から石段を登って行くのが本道だろう。二の丸から黒門口登城道を登るため
二の丸史跡庭園Pに駐車し、黒門口より本丸へ直行するつづら折れの登城道石段を登る。
登城道登り口
二の丸史跡庭園
木立の中にきつい登城石段が続き、黙々と15分程登れば、周囲が明るくなり見上げれば高い石垣に太鼓櫓が見えてくる。
登城道石段
太鼓櫓
大手門跡を通り戸無門を潜り、さらに筒井門、隣に字の通り隠れ門があり、展望広場より松山市内が一望できる。
戸無門
筒井門
太鼓門
太鼓門を潜ると本丸広場。本丸広場には、前方に本丸天守が望め、中央によしあき君が迎えてくれる。
よしあき君(松山城を創設した加藤嘉明から)
松山城は、羽柴秀吉家臣で賤ヶ岳の合戦にて活躍し、七本槍の一人として名をあげた加藤嘉明により創設された。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家康側に従軍し、戦功を認められ20万石となり、慶長7年、道後平野中心
の勝山に城郭工事着手し、翌8年10月に居を新城下に移し、築城工事を継続し四半世紀の後に松山城が完成した。
しかし、嘉明は25年後、寛永4年(1627)に会津へ転封され、その後蒲生氏郷の孫・忠知が出羽国(山形県)
上山城から入国し、二之丸築造を完成したが、寛永11年参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、断絶する。
その後、寛永12年(1635)桑名城主「松平定行」が松山藩主となって以来、235年14代世襲し明治維新に至った。
現在の天守は、松平定行が、寛永19年(1642)に改築した三重連立式天守が、天明4年の落雷のため焼失したた
め文政3年(1820)から嘉永5年(1852)まで、33年の歳月をかけ再建、安政元年(1854)に落成したものだ。
本丸天守
本丸天守閣入り口にある切符売場にて、入場料を支払い本丸に入城。一の門、二の門、三の門と進み、筋鉄門を
潜れば、右手正面に内門が見え、手前右が天守入り口だ。
一の門
二の門
三の門
筋鉄門
正面:内門の右が天守入り口
迷路のような天守内では、順路に従い十間廊下を抜けて小天守に、小天守からは本丸広場や一の門が見渡せる。
松平家家紋「葵のご紋」
本丸天守からは、松山市内が見渡せ、西方には瀬戸内海も望める。
本丸広場から松山市内を望む
西方に瀬戸内海を望む
天守から下りたら、本丸広場の屏風折れ石垣上から天守や遠方を展望し名物「蛇口みかんジュース」で喉を潤す。
本丸天守
蛇口みかんジュース
広場から太鼓門から隠れ門を通り、黒門口登城道を下り二の丸庭園Pに戻り今宵の宿泊地「道後温泉」へ向かう。
隠れ門
道後温泉♨
道後温泉は、日本三古湯の一つといわれ、日本国内でもひときわ古い3000年もの歴史を持つといわれる温泉で、
古代から知られていて日本書紀にも登場、夏目漱石の小説「坊つちやん」にも描かれた愛媛県の代表的な観光地。
道後温泉街は、共同浴場「道後温泉本館」を中心としてホテル旅館が建ち並び、今宵の宿は本館真ん前の「茶玻瑠」。
チェックインをして、一休みしたら本館へ行き入浴予約し、本館裏の道後商店街をそぞろ歩き土産物等をみる。
道後温泉本館(保存修理工事中)
宿泊ホテルに戻り、ホテル内の温泉にて体や髪を洗ったら、予約時間前に本館共同浴場へ行き入浴することに。
本館は、平成31年から始まった保存修理工事中で、現在は小振りの「霊の湯」のみで営業していて、休憩室や
「神の湯」は利用できなくて残念。それでも四十数年ぶり本館入浴は、大理石や庵治石を使う浴室で趣がある。
夜の本館前
夜の道後商店街
明日は、道後温泉周りを観光したら、道後から祖谷渓
]]>
宿毛リゾート椰子の湯
「宿毛リゾート椰子の湯」は、四国西海岸の宿毛湾の大島西端にある温泉リゾートホテル。大島は本土と20m程
の大島橋でつながり、ホテル全体が西側を向いているので、宿毛湾から太平洋、島々を見渡すことができる。
中央「咸陽島」から太平洋を望む
左端「大藤島」から宿毛湾
棚田状の露天風呂も西面を向いているので太平洋を見下ろしくつろげ、到着後の夕暮れ時には、太平洋から対岸
に沈む夕日を眺めながら、朝方は干潮時には大島と干潟でつながるという咸陽島や、防波堤、大藤島等の島々を
眺めながらの温泉を楽しむことができる。宿の難点は、食事が美味しいが量が多すぎることかもしれない。
露天風呂から
棚田式露天風呂
露天風呂から宿毛湾を望む
椰子の湯で温まったら、愛媛県宇和島市へ向けて出発。宿毛よりは、しばらく山の中を走り、高知県から愛媛県
への県境を越えると、やがて快適な海岸線ドライブとなる。
四国西海岸は、岬と入り江がいりくむリアス式海岸、美しい景観と共に豊かな漁場、海面養殖場となっている。
宇和島湾の海面養殖
宇和島城
宇和島へは、65km程の道のりを一部四国縦断道路/宇和島道路を走り、1時間余にて到着、先ずは宇和島城Pに
駐車し、宇和島城の見学をする。
宇和島城は、現存する12天守の一つで、宇和島市街地の中心部に位置する標高約73mの丘陵地に、藤堂高虎が慶
長6年(1601)築城し、高虎が今治に転封となった後、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石を
賜り、元和元年(1615)に入城。2代宗利の時代に 天守以下、城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成、
明治を迎えるまで「西国の伊達」9代の居城だ。
城山の登山口にある市文化財指定の桑折氏武家長屋門を潜り、登山道の急な石段を上りきると天守閣が現れる。
桑折氏武家長屋門
天守への石段
天守閣が見える
城山は国史跡であり、天守は独立式層塔型三重三階。白壁が美しく破風などの御殿建築が随所に施された優美。
天守閣に上り、市街地と宇和海を眺望する。
宇和島城天守閣
宇和島城は、、旧来東側に水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」で、海側の市街地は埋立地。
宇和島湾を望む
天守閣見物を終えたら石段を下り、駐車場横の物産館にて土産物などを物色したら、和霊神社参拝に向かう。
和霊神社
和霊神社は、漁業を中心に広く産業の神として、中四国で崇められている和霊信仰の総本山で、伊達秀宗の元で、
産業拡充、民政安定に手腕を発揮し藩政草創に尽力しながら、凶刃に倒れた功臣、山家清兵衛を祭神としている。
参拝を終えたら、次なる目的地大洲市へ四国縦断道路/愛南道路を北上し、市営観光Pへ駐車し大洲城見学へ。
大洲城
大洲城は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城に始まり、戦国時代を経て、近世に大洲を
治めた小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備された。
大洲城
明治21年(1888)、天守が取り壊されたが、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定された。
現在の4層4階の天守は、明治期古写真や江戸期木組模型等の史料をもとに平成16年(2004)に木造復元された。
大洲城天守閣
肱川の南の肱南エリアは、おおず赤煉瓦間、臥龍山荘などの明治期からの繁栄がうかがえる町並みが見られる。
臥龍山荘
臥龍山荘は肱川流域の景勝地「臥龍淵」に臨む三千坪の山荘で、大洲藩3代藩主加藤泰恒が「蓬莢山(ほうらい
さん)が龍の臥す姿に似ている」ことから「臥龍」と命名したといわれている。
臥龍院内部
山荘内の臥龍院・不老庵・知止庵の三建築は数寄をこらした逸品揃いで、山々と肱川・如法寺河原の自然をとり
いれた借景庭園は、自然と人工の典雅な調和をみせ、庭園内や臥龍山荘から臨む趣深い景色となっている。
不老庵
不老庵から肱川を望む
臥龍山荘近くの大洲神社(神社はそれなりだが無人)
大洲市肱南エリア散策を楽しんだら、駐車場に戻り次なる目的地「下灘駅」に出発する。
下灘駅
愛媛県の伊予灘を一望できる下灘駅は、四国の主要都市(高松−松山−宇和島)を結ぶJR四国・予讃線の無人駅。
開業は1935年、1981年に駅の海側海岸線を埋め立た国道開通するまで、「日本で一番海に近い駅」と呼ばれた。
今も、駅のホームは展望台のように、国道より高い位置に設けられているため、海が間近に見え、ホームに立て
ば目の前に美しい海と空が広がり、そんな光景ゆえに、数多くの映画やTVドラマの舞台に選ばれた。
JR『青春18きっぷ』ポスターに1998年から2000年まで3年連続で取り上げられ、今でも撮り鉄達の人気スポット。
下灘駅ホーム
この三本足の上屋が下灘駅のトレードマーク
青いベンチに座り、海を眺める後ろ姿が映えるらしい?
駅舎
旅情を誘うホーム
下灘駅で旅情を感じたら、松山市へ
]]>
沈下橋
「沈下橋」は、増水時に川に沈んでしまうように設計された欄干のない橋のことで、河川行政用語としては「潜
水橋」が公式名称。 地方によって、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋、冠水橋、地獄橋などとも呼称される。
1999年の高知県による調査によれば全国の一級河川及び支流には合計410か所の沈下橋があり、都道府県別に見
ると、高知県(69か所)、大分県(68か所)、徳島県(56か所)、宮崎県(42か所)の順で多い。
四万十川には、本流に22本、支流も含めると計47本の沈下橋があり、高知県は生活文化遺産として保存している。
四万十川本流を源流近くの一斗俵から、四万十市河口域(旧中村市)まで、車で走り観察できた9本の沈下橋を
紹介する。
一斗俵沈下橋(いっとひょう)
現存する沈下橋では最も古い橋で、国の登録有形文化財(建造物)に指定されている。壱斗俵と米奥集落を結
ぶ橋で、この橋が架かるまでは渡し船が運航されていた。以前は、通学や買い物などの日々の往来に利用され
ていたが、現在は車両は通行止めとなっている。
場所:四万十町壱斗俵 町道米奥壱斗俵線
建設年月日:昭和10年 橋長:60.6m 幅員:2.5m 橋脚:8基 構造:RC直方体
全景
走行面
上流を望む
上宮沈下橋(じょうぐう)
大正北ノ川集落と上宮集落を結ぶ沈下橋。
国道381号から望む場所にあり、四万十川と共に営みを続けてた流域住民の文化を知る重要な景観となっている。
場所:四万十町上宮 町道北ノ川上宮線
建設年月日:昭和32年 橋長:85.1m 幅員:2.9m 橋脚:13基 構造:RC直方体
走行面(国道側から)
走行面
上流を望む
下流を望む
第一三島沈下橋(だいいちみしま)
四万十川最大の中州である三島を結ぶ沈下橋で、国道381号側が第一三島橋、対岸の轟集落側が第二三島橋。
中州は水田として利用されていて、沈下橋完成後は農作業も大きく向上した。中州にはキャンプ場があり、
上空にはJR予土線鉄橋が架かる。
場所:四万十町昭和 町道昭和戸口線
建設年月日:昭和41年 橋長:77.0m 幅員:3.3m 橋脚:5基 構造:RC直方体
走行面(国道側から)
走行面
上流を望む
かりゅう
下流を望む
中半家沈下橋(なかはんげ)
沈下橋、抜水橋、JR鉄橋の3橋が平行にかかる場所で、車輛は通行止となっている。
場所:四万十市西土佐中半家 市道本村中半家線
建設年月日:昭和35年 全長:125.9m 幅員:4.3m 橋脚:9基 構造:RC直方体
走行面(国道側から)
上流を望む
下流を望む
岩間沈下橋(いわま)
ポスターやパンフレットでおなじみの沈下橋。 鏡のような清流に青い空と緑の山々が映し出され、風景が最高
に良い場所で、右岸下流側は河原となっていて、キャンプに最適そう。
場所:四万十市西土佐岩間 市道岩間茅生線
建設年月日:昭和41年 全長:120.0m 幅員:3.5m 橋脚:9基 構造:鋼管
走行面(国道側から)
側面
上流を望む
下流を望む
口屋内沈下橋(くちやない)
曲線を多様したデザインがユニークな沈下橋で、すぐ下流には支流の中で最も透明度が高いといわれている秘
境「黒尊川」が合流している。
場所:四万十市西土佐口屋内 市道口屋内宇和島線屋内大橋支線
建設年月日:昭和30年 全長:241.3m 幅員:3.6m 橋脚:9本 構造:RC直方体
走行面(国道側から)
走行面
側面
上流を望む
下流を望む
勝間沈下橋
橋脚が鋼管でできている沈下橋は 四万十川本川に5箇所あるが 勝間沈下橋だけ鋼管3本/基で造られている。
川幅が広く、水はゆっくりと流れていて、右岸は河原となっているが、左岸の淵は水深18mあった。
(当日訓練中の四万十市消防団による情報)平成15年の釣りバカ日誌14の撮影場所として有名。
場所:四万十市平本 市道鵜ノ江久保川線
建設年月日:昭和34年 全長:171.4m 幅員:4.4m 橋脚:14基 構造:鋼管3本/
走行面
側面
上流を望む
下流を望む
高瀬沈下橋
四万十川で3番目に長い沈下橋で、川幅も広く、清流がゆっくりと流れる。初夏のホタル見物、夏場のキャンプ
などたくさんの観光客で賑わうそう。
場所:四万十市下入道 市道高瀬線
建設年月日:昭和48年 全長:232.3m 幅員:3.4m 橋脚:14基 構造:鋼管
走行面
側面
上流を望む
下流を望む
佐田沈下橋
四万十川最下流で、最長の沈下橋で、川幅も約300mあり、四万十市内から近く、道路沿いに大きな駐車場もあ
り多くの観光客が訪れている。屋形船も発着することから、シーズンには団体ツアー客で賑わい、旅行番組や
ドラマに使われが、情緒を観じられるかは??。
場所:四万十市今成向イ 市道佐田今成線
建設年月日:昭和47年 全長:291.6m 幅員:4.2m 橋脚:19基 構造:鋼管
走行面
側面
上流を望む
下流を望む
]]>
太平洋へ
松葉川温泉♨
松葉川温泉は、四万十川源流点近くにの温泉一軒宿。源流点から30kmほど下流で合流する源流の一つ「日野地
川」を4km程遡った場所に建つ松葉川温泉は、周囲に何も無く四万十川源流を感じ、味合うには絶好の場所だ 。
温泉は日帰り温泉施設も兼ね、日中は日帰り客も来るようだが、夜〜朝は静寂の中にあり、ゆっくり温まれる。
四万十の天然鮎を楽しみ、朝食後も露天温泉にて温まったら、四万十川を太平洋河口にむけて出発する。
天然鮎
松葉川温泉露天風呂
日野地川
四万十川
四万十川(しまんとがわ)は、高知県西部を流れる一級河川で渡川水系の本流、全長196km、流域面積2,186km2。
流域面積は四国第2、全長では四国最長の一級河川である。本流に大規模なダムが建設されていないことから
「日本最後の清流」、また、日本の秘境100選にも選ばれている。
高知県高岡郡津野町の不入山(いらずやま、標高1,336m)を源流とし、南に流れ、高岡郡四万十町窪川におい
て流れを西に向け、四万十町大正において梼原川を合流し、四万十市西土佐において再び流れを南に転じ、広見
川、目黒川、黒尊川の支川を合わせ、四万十市佐田より中村平野に入り後川及び中筋川を合わせ太平洋に注いで
いる。河口附近では「渡川」という名前であるため、水系名は「渡川水系」となっている。
四万十川には、本流に22本、支流も含めると計47本の沈下橋があり、高知県は生活文化遺産として保存している。
四万十川本流に架かる観察可能な沈下橋を探しながら、沿川を四万十市河口域(旧中村市)を目指し車を走らせる。
松葉川温泉からまず最初の沈下橋:一斗俵沈下橋
一斗俵沈下橋下流の堰、落差工
落差工を遡上する魚を捕ろうと待ち構える漁師
沈下橋観察記録は、こちら → 四万十川沈下橋
道の駅四万十とうわで一休み、道の駅付近では川幅も広がり、対岸からのジップラインや川下りも楽しめる。
上流
下流 川下り乗り場
最下流の沈下橋:佐田沈下橋
佐田沈下橋を過ぎると、四万十市中心部(旧中村市)となり、予定では市街地にある郷土博物館などを見学しよ
うと思っていたが、沈下橋観察に時間を要したので、四万十川河口に近い最下流の四万十大橋たもとまで進む。
四万十大橋は、全長:687m、片側1車線、幅員:7.75mあり、四万十川の川幅も相当広くなっている。
四万十大橋
上流四万十川を望む。
下流
橋たもとの産直「彩市場」でや昼食を調達しここで、四万十川に別れを告げ、次なる目的地「足摺岬」へ向かう。
足摺岬へは国道321号を南下し、土佐清水市よりは半島の東・西海岸線、中央(スカイライン)の3路線がある
が、最短ルートの西海岸線を進み、四万十市より約40km、1時間にて到着する。
足摺岬は、四国最南端の岬で、岬の西の臼碆は、黒潮本流が直接ぶつかる全国でも唯一の場所で、室戸岬と異な
り、岬に突き出した先端は約80mの断崖となっている。道路に面する駐車場に車を駐めたら、岬先端まで自生す
る椿のトンネルを行くと展望台があり、270度の視界が広がり、足摺岬灯台から太平洋を見渡すことができる。
足摺岬灯台を望む
天狗の鼻を望む
展望台よりのパノラマを楽しんだら、遊歩道を足摺岬灯台に進む。白亜の灯台は、高さ18m。光度200万カンデラ、
光達距離38km。日本最大級の灯台の一つ、大正3年(1914)の点灯以来、沖をいきかう船の安全を見守り続ける。
足摺岬灯台
太平洋を望む
灯台よりさらに遊歩道を西に向かい「 白山洞門」に向かう。距離600mとあるので甘く見ていたが、洞門は海岸
面にあるので高低差が激しく一苦労、最後の遊歩道階段を下ると白山神社があり、さらに下ると洞門が現れる。
白山洞門は、太平洋の大波が、岬先端の大きな岩山に高さ16m、幅17m、奥行き15mの大きな穴を空けた海蝕洞。
迫力ある白山洞門
浜より白山神社鳥居を見上げる
急階段を上り、遊歩道を駐車場に戻ったら、広場にあるジョン万次郎像を拝顔したら、次なる目的地に向かう。
ジョン万次郎像
岬から再び足摺半島西海岸線を走り、土佐清水市よりさらに海岸線を走ると、美しい海岸に竜串海域公園がある。
竜串海岸もゆっくり観賞したかったが、早めに温泉に入りたく今宵の宿「宿毛リゾート椰子の湯」に急ぐことに。
ぐるっと竜串ウェストパークより
竜串海岸はあの岬の向こう側にある
明日は、高知から愛媛へ
]]>
仁淀川(によどがわ)は、愛媛県〜高知県を流れる一級河川、愛媛県内では面河川(おもごがわ)と呼ばれ、流域面
積1,560km2、石鎚山源流から太平洋に注ぐ河口まで流路延長124km、吉野川・四万十川に次ぐ四国第3の河川だ。
源流部は、四国最高峰の石鎚山に源を発する面河川と、分水嶺である三坂峠から流れる久万川が、御三戸(愛媛
県上浮穴郡久万高原町)で合流して形成され、面河第三ダム下流の県境から「仁淀川」と河川名が変わる。
中流域には四国で第2の規模である多目的ダム「大渡ダム」をはじめとして治水や水力発電のための施設も多く、
四国山地に深いV字谷を刻みながら南下し、やがて高知県高知市/土佐市付近で土佐湾〜太平洋へと注ぎ込む。
水質は国土交通省発表の「水質が最も良好な河川」に過去8回選ばれれていて、水面が青く美しい透明度、エメ
ラルドグリーンともターコイズブルーとも呼べる「青」の美しさ「仁淀ブルー」と呼ばれる淵や滝壺などがある。
そんな仁淀川を実際に見て、体験したいため仁淀川に向かう。高知城より西方に12?ほど走ると、土佐湾河口よ
り12?程上流の仁淀川堤防にぶつかる。この付近は水害防止用に整備された堤防のため車窓より川水面を見るこ
とができないが、仁淀川沿いの国道19号を右折して上流部に向け走ると川水面の見える快適な道路となる。
仁淀川沿いにある道の駅「土佐和紙工芸村」に駐車して、初めての仁淀川を眺望、美しさと大きさを感じられる。
仁淀川下流を望む
ここは、カヌーやラフティング、サップ等による仁淀川リバークルーズがあり、川遊びを楽しむことができる。
仁淀川上流を望む
名越屋沈下橋
道の駅より、国道を川左蛇行に沿い上流に3分ほど走ると、仁淀川最下流の沈下橋「名越屋沈下橋」が現れる。
国道から沈下橋に向けて左に下り、橋手前の広い待機スペースに車を駐め、沈下橋を間近に見に行く。
名越屋沈下橋
下部支持構造は鋼管杭
「沈下橋」は、増水時に川に沈んでしまうように設計された欄干のない橋のことで、仁淀川はじめ高知県西部の
河川に古くから架設され、現在も多くが周辺住民の生活道として活用されていて、観光スポットとなっている。
走行面
名越屋沈下橋は、全長191mの生活道橋で、高知市から最も近い沈下橋のため、多くの観光客も訪れるようだ。
河口に近いため、川水面幅もほぼ橋全長に近く、四国第3の大きな河川であることが判る。
上流側
下流側
国道19号をさらに遡り支流「上八川川」合流点を過ぎたら、国道から県道18号左折して仁淀川上流に向け走る。
片岡沈下橋
ここを左折せずに上八川川を遡れば、仁淀ブルーで名高い「にこ淵」に行けるが、今回はもう一つの仁淀ブルー
スポット「水晶淵」に行くことを選んだため左折、左折後5kmほど走ると左眼下に「片岡沈下橋」が見えてくる。
片岡沈下橋
走行面
片岡沈下橋に下りるには、県道反対側から回りこまねばならず判りづらいが、何とかたどり着くことができた。
片岡沈下橋は、越知町片岡地区と南片岡地区を結ぶ全長約100mの生活道沈下橋で看板や仮設トイレもあるので
観光客も多いのだろう。
記念顔出し看板
上流側
下流側
片岡沈下橋を見たら、県道に戻りさらに仁淀川沿いに「水晶淵」を目指して出発。ここからは、道路事情が悪く
なり、道路幅が急に狭い道路が連続するが、これも四国名物なのでしかたない。そして、この辺りからナビのル
ート検索機能が役に立たなり、エージェントに目的地を言っても、最短距離ルートを示さず広い道幅優先でルー
ト検索をしてしまい、とんでもなく遠回りをさせられる。まあ、そこは天性の土地勘をはたらかせるしかない。
険道(県道)より酷道(国道)494号を右折し、仁淀川町で日本三大酷道と言われる酷道439号(ヨサク)を北上する。
仁淀川本流とはここで別れ、支流の土居川沿いを進む。仁淀川は、蛇行を繰り返しながら西に石鎚山源流まで。
439をしばらく走ると安居川となり、安居川に沿い439から険道に左折して、さらに山奥へと入っていけば道路
は益々険道となる。対向車が来たらと心配だが、観光シーズンを外れた平日なので、対向車が無いのが助かる。
水晶淵
狭あい道路を進むと安居渓谷がはじまり、宿泊施設宝来荘を過ぎ、さらに奥に進むと「水晶淵」があるようだ。
水晶淵駐車場に車を駐め、渓谷に続く遊歩道を下りていくと、沢水が青く貯まる「水晶淵」仁淀ブルーがある。
水晶淵手前の流れも青い
水晶淵の青
さらに上流に沢登りをしていくと、多段状の砂防ダムが現れ、滝下の水も青く光る。
砂防ダム
水晶淵の上流にある砂防ダム滝下の溜まり水もかなり青い、水晶淵より水深があり青が濃い仁淀ブルーだ。
安居川に流れ落ちる「背龍の滝」
安居渓谷を散策して、水晶淵の「仁淀ブルー」に感激したら、日も落ちてきたので次なる目的に向け出発する。
水晶淵より下流の流れ
当初予定は、中津渓谷に行こうと思っていたが、時間的に難しそうなので取りやめて、四万十川源流を目指す。
酷道439号に戻り、仁淀川町からさらに仁淀川沿いに上流を目指し走り、仁淀川最大のダム「大渡ダム」下にて、
仁淀川と別れ、支流の長者川沿いをさらに439を走る。
矢筈峠トンネル手前を左折し、四万十川源流点付近を通る険道(県道)378号を下る。この道はさらなる険道で
ガードレールも無い狭あい道、日没近くで小雨模様でもあり、視界が悪く走りづらいが険道を楽しむしかない。
悪条件のため、不入山付近の四万十川源流点に行くことは諦め、源流点進入口近くの堂海森林公園にて一休み。
堂海森林公園に建つ四万十川源流点への案内
堂海森林公園は、せいらんの里と呼ばれていて、津野町出身の高僧、義堂・絶海の像もある自然豊かな所のよう。
狭あい道の山間をぬけたら、今宵の宿泊地「松葉川温泉」を目指す。明日は、四万十川沿いを下流に向け走る。
明日は、四万十川から太平洋へ
]]>
よさこい温泉にて、朝食をとり、朝風呂に入ったら、高知市内観光に向けて出発する。空模様は曇天だが・・・
ホテル窓から太平洋を望む
高知市は、幕末の志士「坂本龍馬」を始めとして、明治維新で活躍した多くの人物を輩出した歴史ある都市だ。
政治経済都市であると共に、市内には多くの名所名跡がある観光都市となっている。
観光の始めに坂本龍馬像のある「桂浜」を目指し海岸線の道を進み、桂浜公園駐車場に駐める。
桂浜
桂浜は、高知県高知市浦戸に位置し太平洋に臨む海岸。土佐民謡「よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望
んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、高知を代表する名所の一つとして知られる。四国八十八景26番。
桂浜
桂浜に着いたら、先ずはシンボルの龍馬像に会いに行く。龍馬は、桂浜を望む丘陵に和服姿に懐手,ブーツ姿で,
はるか太平洋の彼方を見つめ立っている。高さは台座を含めると13.5mあり、現在、龍馬と同じ目線で太平洋を
眺めるための仮設展望台を設置されていて、料金を払い上がれば龍馬の顔も直近で見ることができる。
龍馬像後ろ姿
正面
坂本龍馬像アップ
龍馬への挨拶が済んだら、階段を下り桂浜へ。桂浜は、龍頭岬(上龍頭岬)と龍王岬(下龍頭岬)の間に延びる
本浜という砂浜を言い、龍頭岬(上龍頭岬)東側には東浜、龍王岬(下龍頭岬)西側には西浜がある。本浜遊歩
道外側には、桂浜水族館や展望台・飲食スペースを備えた休憩所がある。
桂浜全景
龍頭岬から本浜遊歩道を行き、坂本龍馬や多くの志士が眺めたであろう荒波と、遥かに広がる太平洋を眺望する。
桂浜波高し
西端の龍王岬にたつ海津見神社に参拝したら、本浜休憩所「五色テラス」にて名物アイスクリンを舐めて一休み。
海津見神社
駐車場付近にある土産物屋にて地酒や龍馬土産を買ったら、高知市中心部に向けて出発。
高知城
高知城は、山内一豊が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方し、その功績により徳川家康より土佐
一国を与えてられ創建されて以来、約400年余りの歴史を有する南海の名城だ。
外観四重内部三層六階の天守閣や追手門などの建物は国の重要文化財となっていて、日本国内に残る木造の12古
天守の一つで,火災や震災,明治維新による全国的な廃城,太平洋戦争など幾度となく襲ってきた危機を乗り越
え,現在でもその姿を残している。
高知公園Pに駐車して、高知城天守閣を目指すと、先ずは入り口前に土佐藩初代藩主山内一豊公之像が出迎える。
山内一豊公之像
追手門から天守閣
石垣の上に渡櫓を載せた堂々たる楼門「追手門」をくぐれば高知城内となり、「板垣退助像」が出迎えてくれる。
追手門
板垣退助像
板垣退助像左手の石段を登り詰めるた杉ノ段には、内助の功で有名な山内一豊妻「千代の像」がひっそりと立つ。
千代の像
石段をさらに登り、鉄門跡を右に上っていくと、本丸天守閣が現れる。
天守閣
さらに石段を進めば本丸御殿天守閣入り口となり、入場料420円也を支払入場する。
天守閣全景
天守閣から、城内〜高知市内を見渡すことができる。
高知城歴史博物館からはりまや橋方面を望む
城内
高知城見物が終わったら、追手門を出て近隣の高知名所観光へ、ひろめ市場を通り過ぎ、帯屋町筋商店街を通り
抜け、日本三大ガッカリ名所の一つ「はりやま橋」に行ってみる。
鰹のたたきで有名な「明神丸」帯屋町店
はりまや橋
よさこい節で歌われ有名になった「はりまや橋」だが、繁華街の小川に架かる橋なので、まあこんなものだろう。
はりまや橋
はりまや橋
はりまや橋公園
ひろめ市場
はりまや橋のたもとの菓子店舗にて高知銘菓を土産として買ったら、ひろめ市場へ戻る。
ひろめ市場
ひろめ市場は、幕末の土佐藩家老深尾弘人蕃顕(ひろめしげあき)屋敷跡に造られた屋台村商店街で、飲食店や居
酒屋、土産物屋など何でも揃い、高知市民や観光客で賑わっている。
高知で外せないのが「鰹のたたき」で、有名店は「明神丸」だが、ここは自称一番鰹のたたきが美味いという
「やいろ亭」にて食することに。やいろ亭のある自由広場では、多くの人々が真っ昼間から美味い肴とビールや
酒を楽しんでいる。こちらは、まだ運転の予定があり、残念ながらBeerが飲めない。
やいろ亭前自由広場
塩たたきと刺身の二人盛+塩キュウリ
やいろ亭の塩たたきを堪能したら、高知城駐車場に戻りいよいよ次の旅の目的「仁淀川」に向け出発。
高知城天守閣
清流「仁淀川」へ
]]>
徳島から高知へ
眉山
ホテルは温泉宿ではないので、朝食を済ませたら早々とチェックアウトし、近くの阿波おどり会館へ徒歩で向かう。
阿波おどり会館
裏手にある天神社にお参りしたら、阿波おどり会館5階の乗り場よりロープウェーにて眉山に登頂する。
徳島天神社
眉山は、標高290mの東西になだらかな丘陵地で、眉の形に似ていることから眉山と名付けられたそうだ。頂上に
は展望台があり、徳島市街地をはじめ、遠く阿讃山脈・瀬戸内海・紀州の山々を望める絶景地だ。
古くは万葉集にも歌われ、身近に自然と接することのできる公園として、徳島市の緑のシンボルとなっている。
徳島市は、四国を代表する大河「吉野川」河口にできた三角州であることが良く解り、本流の吉野川をはじめ、
新町川や旧吉野川が紀伊水道に流れ込む水の豊かな都市である。
吉野川河口
新町川河口
剣山を望む
吉野川は、高知県と愛媛県県境にある石鎚山脈に属する標高1,897mの瓶ヶ森を水源とする流路延長194km、流域
面積3,750km2、川幅最長部は2,380 mの四国で一番大きな河川で、日本三大暴れ川の1つとして数えられいる。
徳島市内から紀伊半島
展望台広場に建つ奇妙な塔は、第二次世界大戦の激戦地ビルマ(ミャンマー)戦線からの帰還兵で作られ
た徳島県ビルマ会によって、平和を願いビルマ仏塔を模して建設された平和記念塔パゴダ。
平和記念塔パゴダ
眺望を楽しんだらロープウェーで下山し、阿波おどり会館内部を見学したら、次なる景勝地へ向かい出発する。
蒲生田岬
徳島から太平洋岸沿い国道55号を室戸岬を目指し南下し、道中にある景勝地を時間の許す限り寄り道することに。
徳島市内で給油して、先ずは、先っぽ好きとして徳島県阿南市にある四国最東端「蒲生田岬灯台」に寄り道する。
蒲生田岬は、瀬戸内海紀伊水道に突き出た形の四国最東端の岬で、室戸阿南海岸国定公園に属する。
蒲生田岬灯台への遊歩道
蒲生田岬灯台
蒲生田岬灯台と和歌山県の紀伊日ノ御埼灯台を結んだラインは紀伊水道と太平洋を分かつ線で大阪湾および瀬戸内海の入
り口をなしている。
伊島〜棚子島・前島
不動明王
蒲生田岬モニュメント
日和佐海岸
国道55号に戻り、さらに南下すると、ウミガメで有名な日和佐大浜海岸、ウミガメ博物館があるので寄り道する。
大浜海岸
到着してみると残念ながら博物館は改装臨時休業中、しかたなく大浜海岸散歩と日和佐八幡神社に参拝して出発。
日和佐八幡神社
まつりの準備中
右手の国道沿いのには美しい海岸線が続くが、ゆっくり観光する時間も無いので、車中より眺め道の駅東洋町で
昼食をとったのみで室戸岬へ。
室戸岬
室戸岬は、高知県室戸市に属し、太平洋に突き出る室戸半島の先端の岬。国の名勝、室戸阿南海岸国定公園に指
定、日本新八景、四国八十八景22番に選定されていて、先っぽ好きとしては外せない岬だ。
国道55号に面した駐車場に車を駐めて、岬の先端の灌頂ヶ浜に向かい遊歩道を散策する。
灌頂ヶ浜
遊歩道は亜熱帯性植物・海浜植物群落や岩礁を縫うように設置され、太平洋に大きく着き出した岬にて、紀伊水
道と土佐湾に分けている。岬先端は断崖では無く岩礁地帯の浜で、室戸岬灯台は、先端より離れた標高151mの山
上にあり、行くには登山をするか室戸スカイラインを回るしかないので、今回は岬先端より見上げることに。
室戸岬先端の海
室戸岬灯台は高台の上
駐車場付近には、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王志士陸援隊隊長「中岡慎太郎」の像が、
太平洋を見据えるように建っている。
中岡慎太郎像
室戸岬を一周りしたら、国道55号を進み奈半利町から内陸に入り、庭園公園の北川村「モネの庭」に立ち寄る。
北川村「モネの庭」
「モネの庭」は、フランス印象派を代表する画家であるクロード・モネが、1883年以降暮らしたパリ郊外の印象
派芸術家の村ジヴェルニーにある「モネの庭」を、北川村の自然を生かして再現したものだ。
モネ財団に許可を取ったそうだが、どうしてここに「モネの庭」との疑問はあるが、まあそれは良いとしよう。
「モネの庭」を訪れるのは2回目で、改めて訪れればそれはそれで良い庭園だ。中心にある「水の庭」では睡蓮
の葉が円形や楕円形を保って水面全体にほどよく分布するように、水底で鉢に植え、週に一度は水中の落ち葉を
回収し、年に一度は池の水を抜いて睡蓮の株を交換している。
水の庭
池の周囲にある草木も、季節・時間帯による陽光なども考慮して、緑と空の水面への映り込みを計算して植えら
れている。園内では1000種類の花などを育てて植え替えている。
ボルディゲラの庭
風の丘より太平洋を望む
「モネの庭」を堪能していると、そろそろ夕暮れ時となったので、今日の宿泊地、高知市の25?ほど手前の芸西
村にある「よさこい温泉」に向かう。
ロイヤルホテル土佐にチェックインし、早速「よさこい温泉」にて温まり疲れを癒す。夕食は、ホテルで取らず、
予約した近くの海鮮料理屋「藤」にて、鰹のたたきや名物海鮮丼の海鮮料理を楽しむ。
活魚藤の鰹のたたき
室戸の海
明日は高知市内観光から仁淀川へ
]]>
四国は、言わずと知れた日本列島を構成する北海道・本州・九州とともに主要4島の一つで、徳島県、香川県、
愛媛県、高知県の4県で構成されている。本州とは本州四国連絡橋(本四架橋)の開通により交流が盛んであり
近年では文化・政治経済において本州の影響を大きく受け、島という感覚は薄れ、陸続きと言っても良いほどか
もしれない。
しかし、四国はやはり南は太平洋に面し、北は瀬戸内海、東西は海峡にて隔離された島であり、だからこその
独自の文化や自然が残された魅力的な地域だ。
四国中央には、最高標高の石鎚山1,982m〜剣山1,955mの四国山地が連なり太平洋側と瀬戸内海側に区分され、
気候や文化にも独自性がある。山地からは吉野川や四万十川、仁淀川など豊かな水量の多くの河川が急勾配で海
洋に流れ出ている。それらの流れには美しい水と豊かな生態系が営まれ、山深くまで人々の生活があり独特の風
景が見られる。
四国には、若い頃ヒッチハイクで一周した経験があり、社会人となって仕事で高知に数度、高松や松山を訪れた
が、ゆっくり観光したことは無く改めて四国の魅力を知りたくなった。
四国というと空海が拓いた四国巡礼・八十八ヶ所はお遍路さんで有名だが、まだお遍路するほど人間ができてい
ないし、余裕もないので今回は八十八ヶ所霊場巡礼はしないことにする。
旅の目的は「四国水事情視察」として、業務繁多な時期に職場を空けることの言い訳とした四国水事情報告書
(旅行記)を、記録と記憶に残すためにブログをアップする。
四国への道
住まう北関東からは、四国までの最短ルートでも600km超ありちょっと遠いが、四国内の交通事情の不便さ、
現地移動の利便性のため、自車運転で行くことにした。
先ず、四国の入り口である徳島県鳴門市まで、高速道路を乗り継ぎ約610kmをひとっ走り。
ナビに従い一部(佐久南IC〜岡谷IC間)一般道を走ったものの、上信越→長野→中央→名神→中国縦貫→阪神
高速7号→神戸淡路鳴門自動車道と高速道路を乗り継ぎ、2時間毎の休憩と昼食時間を含め8時間ほどのロン
グドライブ。
明石海峡大橋 通過
明石海峡大橋にて本州を離れ、淡路島に渡り淡路SAにて本州・明石海峡大橋を振り返る。
淡路SAより明石海峡大橋全景
意外と大きい淡路島を通過し、大鳴門橋を渡り鳴門北ICを降りれば、もうそこは四国だ。
大鳴門橋 通過
鳴門の渦潮の発生時間に間に合うよう自宅を早朝4:20に出発し、途中大阪で若干の渋滞はあったものの予定
通り正午に淡路島を通過し、観潮船うずしお汽船乗り場に到着する。
残念ながら到着直後の12:30発観潮船は団体客で満員となっており、次便13:00発に乗船し、四国最初
の観光を開始する。
うず潮
鳴門の渦潮は、徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間の鳴門海峡で発生する渦潮で、瀬戸内海側の播磨灘と太平
洋側の紀伊水道との水位差、海流速度差により発生する。
渦潮を見る観潮船は、鳴門側からは小型の「うずしお汽船」と、大型の「鳴門観光汽船」があるが、今回はより
海面近くで見られ、格安なうずしお汽船にて観潮することにした。
出航時間まで、30分ほど港乗り場付近を散歩して運転疲れを癒して待てば、観潮を終えた前便が戻ってきて、
いよいよ乗船し出港だ。
うずしお汽船
渦潮発生箇所は、先ほど渡ってきた大鳴門橋直下付近で、観潮船乗船後数分で到着する。
大鳴門橋を直下より見上げる。
時間的に渦潮のピークが過ぎる頃なので、それほどは大きな渦は発生していないが、それでも、いくつかの渦潮を
見ることができる。
手前に大型観潮船「わんだーなると」、その向こうに淡路島から出航の「咸臨丸」
うず潮を満喫したら、再び大鳴門橋直下をくぐり港へ戻る。
渦の道
渦潮見物が終わったら、車で鳴門公園駐車場に移動し、大鳴門橋橋桁間に設置された海上遊歩道「渦の道」へ。
公園駐車場から岬の先へ進めば、橋桁下に渦の道入り口が現れる。
入り口から450mほど先の展望室にはガラス展望床があり、渦潮を見ることができる。
残念ながら、時間的に渦潮発生は治まってしまったが、通路や展望室からの太平洋、瀬戸内海の雄大な眺めは一興だ。
渦の道見物を終えたら、岬の先端「千畳敷展望台」へ。千畳敷からは、鳴門海峡と大鳴門橋を一望することができる。
大塚国際美術館
鳴門海峡の渦潮自然探勝の次は、鳴門のもう一つの人気スポット「大塚国際美術館」へ。
車で海沿いの美術館専用Pに行き駐車し、駐車場から美術館とを引っ切り無しに往復している無料シャトルバス
に乗れば、待つことは無く美術館へ行くことができる。
大塚国際美術館は、大塚製薬グループにより創られ、世界26カ国の西洋美術史を代表する絵画1,000余点を陶
板で原寸大に再現した「陶板名画美術館」で、建物は、斜面をくりぬくように造られ、地上2階地下3階、入り
口はさらに下階にあり、外部からは全貌が見られない構造となっている。展示スペースは地下3階の部分にあり、
延べ床面積29,412?を有する日本最大級の規模を持ち、世界の名画を一堂に集めた世界の美術館を味わえる。
人気スポットのためオンラインチケットを購入しておけば、混雑を避け並ぶこと無く入場できる。
美術館へ入場すると先ずは、長い上りエスカレータにて地下3階展示室へ。各展示室は迷路のようになっていて、
全て見ようとすると延長4?の動線があり丸1日かかりそうだ。
エスカレータを上りきるると、眼前に「システィーナホール」が現れ、正面の「最後の審判」に圧倒される。
システィーナホール
展示は、地階より古代→中世→ルネサンス→バロック→近代→現代と西洋美術の変遷が系統的にされていて美術史
的にも理解しやすい。
スクロヴェーニ礼拝堂
ヴィーナスの誕生
モネの睡蓮池
記念写真スポット
17時の閉館まで2時間ほど国際美術館を楽しんだら、今宵の宿泊地の徳島市内に向かう。
ゲルニカ
徳島市内及び近隣に適当な温泉宿が無いため、徳島駅近くのホテルに宿泊し夕食は、骨付き阿波尾鶏「一鴻」にて
美味い鳥と地酒を楽しんだ。今宵は、明日からの四国一周に備え、ホテルに戻り運転疲れを癒し体を休める。
骨付き阿波尾鶏
明日は、徳島から高知へ向かう。
]]>
〜山形霞城〜
銀山温泉から
銀山温泉の朝は久しぶりの晴天、4階川側の部屋から見下ろす銀山川には、早くも観光客の姿がチラホラ。
「古勢起屋別館」玄関前の足湯
上流側 能登屋
下流側 藤屋
早起きして朝風呂に入り、朝食を済ませたら、温泉街を散策し土産物屋をのぞき、地酒などを買い込む。
白銀の滝
足湯熱い!
10時には宿をチェックアウトして、白銀橋まで歩き、マイクロバスにて駐車場まで送ってもらう。
自宅への帰路につくわけだが、道すがらにあるいくつかの観光地に寄り道して行くことにする。
山寺立石寺
先ずは、銀山温泉から50kmほど南に位置する、山形の定番観光地「山寺立石寺」を参拝しようと向かう。
「山寺」の正式名は「宝珠山立石寺」。奇岩怪石からなる山全体が修行と信仰の場になっていて、登山口
から大仏殿のある奥之院まで1時間ほどの道のりのそこかしこに、絶佳の景観が広がっている。
俳聖・松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の名句を紀行文「おくのほそ道」に残したので有名だ。
立石寺直近の駐車場まで車で入り込み、先ずは本堂「根本中堂」を参拝へ。根本中堂は国内最古のブナ材
木造建築とされ、国の重要文化財に指定されている。
「根本中堂」
山寺登山口
石段登り
「弥陀洞(みだほら)」は、雨風に削られた岩壁に仏の姿を見つけることができた人は幸せになれるとされるパワースポット。
邪心を持つ人がくぐらぬように2体の仁王像がにらみをきかせている「仁王門」を過ぎ、「開山堂・納経堂」へ。
仁王門
仁王門からさらに登ると、左手に山々を背景に赤い「納経堂」が巨大な奇岩の上に建つ様は、山寺を代表する眺め。
納経堂をさらに進み細い階段を上れば、能の舞台のような「五大堂」にたどり着く。お堂から見渡す田園風景も山寺
のビュースポット。
五大堂から田園風景
納経堂
五大堂からの眺めを楽しんだら、本道に戻り、立石寺最終地点にあたる「奥之院・大仏殿」まで登りお参りする。
奥之院・大仏殿は、悪縁切りのご利益があるとされている。御朱印をいただき、一休みしたら、下山の途につく。
奥之院・大仏殿
石段を下りきり、登り口付近の茶店で名物「力こんにゃく」でパワーアップしたら、山形城址「霞城」へ向かう。
山形霞城
山形城址「霞城公園」は、山形市のほぼ中央に位置し、約35.9haの面積を有する山形城跡を整備した都市公園。
延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼(最上家初代)が築城したのが始まりと伝えられ、
現在の城郭は第11代城主最上義光(1546〜1614)が築いたものが原型とされている。
本丸・二ノ丸・三ノ丸の三重の堀と土塁で囲まれた、全国有数の規模を持つ輪郭式の平城で、出羽の関ヶ原合
戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れて見えなかったことから「霞ケ城」とも呼ばれていた。
二の丸東大手門
東大手門櫓
出羽国山形藩は、戦国外様大名として最上家により57万石の大藩であったが、最上義光没後の1622年に最上
家は改易となり、徳川家譜代の鳥居家、保科家と続き、東北地方における徳川藩屏として君臨し、この時期の
所領は20万石前後の中藩になった。保科家改易後は、禄高も徐々に減じられ、徳川幕閣の左遷地となり、幕末
の山形藩は5万石の小大名となった。隣の庄内藩が、酒井家12代により治められたのとは大きな違いとなった。
最上義光像
現在残っている二ノ丸の堀や土塁・石垣は、最上家改易後1622年に城主となった鳥居忠政により整備された。
昭和61年に国の史跡指定を受け、平成18年「日本100名城」に認定され、現在は桜と観光の名所になっている。
二の丸東大手門櫓や本丸一文字門等が復元され整備が進んでいるが、さすがに本丸天守閣復元は難しいだろう。
本丸一文字門
本丸一文字門
霞城公園の二の丸内の、広い敷地は都市公園として、山形市郷土館、山形県立博物館、山形美術館、最上義光
歴史館などの多くの文化施設がある。天守閣復元はできずとも、広い敷地が市中心部にあるのは山形市の魅力。
山形市の観光が済んだらそろそろ帰路につく。山形市から北関東の自宅までは約350kmの約4時間のドライブ。
霞城公園近くの山形中央ICから、東北中央自動車道→東北自動車道→北関東自動車道と走り継いで、お疲れ様。
]]>
湯殿山から銀山温泉へは、有料道路から月山道路R112にて月山を回りこむむように南下し尾花沢市を目指す。
慈恩寺
月山湖北岸を走り寒河江市に入ると、724年僧行基が聖武天皇に奏上し、746年勅命にてインドの婆羅門僧正
(ばらもんそうじょう)により開山された慈恩寺があるので参拝していく。
平安時代には鳥羽天皇により、天皇のために祈祷を行う「御願寺」とされ、江戸時代には、学頭を務める宝蔵
院・華蔵院と別当を務める最上院の3つの寺の下に、清僧(出家した僧侶)・修験(山伏)の48坊がおり、さら
に雑務を担う一山役人、寺侍や家来等もいる巨大祈祷寺院だったようだが、明治時代に御朱印地がなくなり縮小
されて現在は3カ院17坊となってしまった。
ちょうど、慈恩寺では御六堂展が開催中で、本堂・三重塔・四つの御堂、重要文化財16躯を含む33躯が公開中。
山門
三重塔
薬師堂
釈迦堂
本堂は、残念ながら改修工事中で足場が架かり、外観を見ることができない。
慈恩寺旧境内を紹介する総合案内施設『慈恩寺テラス』が慈恩寺の麓に建てられ、慈恩寺の歴史的価値を多様
なプログラムでご紹介している。館内には、土産屋や寺そば・寺カフェがあり、昼食に名物肉蕎麦を食する。
慈恩寺テラス
銀山温泉♨♨
腹ごしらえができたら、いよいよ銀山温泉に向かう。銀山温泉は、かつて江戸時代初期の大銀山として栄えた
「延沢銀山」の名称に由来していて、銀山川の両側にレトロな温泉宿や店舗が並ぶ、最近人気の観光スポット。
尾花沢市から約13km入った山間部にあり、温泉街は昔ながらの狭あい道路のため、車は手前にある駐車場に
駐車し、宿のバスにて直近の白銀橋まで送迎してもらう。今回の宿は温泉街のほぼ中央に建つ「古勢起屋別館」。
今宵の宿「古勢起屋別館」泊まるのは4階の川側部屋
古勢起屋別館に泊まる利点は、温泉入り口に立つ銀山温泉唯一の大型温泉ホテルの露天風呂を利用できること。
温泉街にある古勢起屋別館には露天風呂がなく、内湯も郷愁を感じる洗い場も脱衣室も狭く、熱い風呂となる。
温泉街
銀山川沿いの温泉宿
銀山川沿いの温泉街には、個性的な温泉宿が建ち並ぶ。
千と千尋の神隠しのモデルとなった?「能登屋旅館」
建築家隈研吾設計による「藤屋」。近代的デザインは良いが、夜には格子越しに客室内部が丸見えになる。
鏝絵が美しい「古山閣」
早めに、チェックインしたら、先ずは温泉街の散策にでかける。銀山川の上流には白銀の滝があり、さらに山
間に入ると銀山廃坑洞や夏しらず杭等がありゆったり散策コースとなっているが、今回は銀山荘の露天風呂に
行く時間があるので、「白銀の滝」から「せことい橋」を回るお手軽「滝見コース」とした。。
白銀の滝
滝上にせことい橋が望める
せことい橋から上流
夕食後に内湯で温まったら、温泉街をそぞろ歩くのもまた楽し。白銀の滝もライトアップされこれも美しい。
美しい温泉街の夜景
夜の温泉街を楽しんだら、今宵はゆっくり休み明日の活力を養います。
山形観光「山寺立石寺・山形霞城」へ
]]>
〜月山・湯殿山〜
月山へ
現世の幸せを祈ったら、死後の安楽往生を祈りに月山に向かう。月山は、世界でも珍しい半円形のアスピーデ
型火山で、頂上に月読命を祀る月山神社本宮がある。約千年前につくられた延喜式神名帳にのる名神大社で、
古い時代から朝廷を始め庶民の信仰が篤く、水を司る農業神や航海漁澇の神とし広く庶民の信仰を集めている。
月山へは羽黒山頂上駐車場から有料道路を下り、月山ビジターセンター脇の山岳道路を20km登った月山八合
目が起点となる。山頂の月山神社本宮まで、八合目から2時間程度の本格登山となるが、状況によって弥陀ヶ
原散策や中之宮参拝できたらと、臨機応変に予定した。
標高414mの羽黒山天候は小雨が降ったりやんだり、標高差約1,000mある八合目の天気は悪天候が予想されるが、
まあ、車なのでとりあえず八合目レストハウスまでは行ってみることにする。
案の定、五合目当たりから霧が巻き始め七合目を過ぎれば視界数m、八合目駐車場は悪天候、暴風雨視界無し。
月山は前世の山、これは自己の死後は往生できないと喩り、レストハウスで珈琲を飲み先祖の霊に感謝する。
レストハウスから八合目駐車場
悪天候でも観光バスツアー客や登山者がいて驚き!路線バス運休にて下山困窮の若者を同乗させて下山する。
湯殿山は、月山の西方嶺続きにあるが、湯殿山神社本宮に車で行くには、羽黒山登坂口付近まで戻り、北側山
腹を回りこんで行くことになる。そのため、湯殿山神社本宮参詣は翌日として、一度湯殿山を通り越し、月山
スキー場下の「月山志津温泉変若水の湯つたや」に宿を取り温まる。
内湯
露天風呂
湯殿山へ
月山志津温泉から湯殿山神社参詣の起点となる駐車場までは、山腹の曲がりくねった狭い山道を経て、湯殿山
有料道路と継いで、宿から約14km程走れば到着する。
湯殿山レストハウス前の駐車場に着くと、巨大な大鳥居が眼前に現れる。
湯殿山神社大鳥居
駐車場から湯殿山本宮までは、1.2km程の上りのアスファルト道。レストハウス前からシャトルバスも走って
いるが、待ち時間も惜しいので歩いて行く。歩けば、道端にはいくつもの末社が祀られ、その参詣も一興だ。
梵字川を渡る神橋「御沢橋」
丹生水上神社(湯殿山神社本宮末社)
参道を上り詰めるといよいよ湯殿山神社本宮入り口広場
湯殿山御神牛
ここから神域、撮影禁止。参拝者は、本宮内で見たもの経験したことは「語るなかれ」「聞くなかれ」とされている。
「語るなかれ」とされているので詳細は述べられないが、公開情報にて湯殿山神社本宮参詣の謎?を紹介する。
本宮参拝するには、月山山頂より流れ出る梵字川沿いまで階段を下り、本宮前の小屋にて靴を脱ぎ裸足となる。
裸足になったら、本宮入口にて祓料500円也を納めて御祓いを受け、俗世から切り離された神域に入っていく。
お湯の湧き出る大岩のご神体に生まれ変わりを祈ったら、温が流れ落ちる岩肌を裸足で登り、御滝神社・末社
遥拝所にて遙拝する。ご朱印を受け、出口の足湯にて、足を清め温めて、荘厳な湯殿神社本宮参詣は終了する。
湯殿山神社に生まれ変わりを祈ったおかげか、日本海側の空も明るくなってきた。これで未来も明るいか!?
駐車場までの帰り道も、参道沿いの神社や墓所にお参りしならが下る。
玉姫稲荷神社
仙人沢の行人塚即身仏(虚体)には蛇が、縁起良い?
大鳥居をくぐり出れば神域から現実界へ。湯殿山で良い未来を授かったと信じ、生まれ変わりの旅も無事終了。
新しい良い未来が子や孫、次の世代に訪れますように!!
新しい自分に生まれ変わったら、月山を南回り迂回して尾花沢市にある岩手県境の「銀山温泉」へ向かう。
]]>
〜羽黒山〜
出羽三山参拝の始まり現世の幸せを祈る山「羽黒山」に参詣のため、湯田川温泉から約20kmの随神門に向かう。
山頂の羽黒山三神合祭殿:出羽三山神社へは車で直行できるが、ここから2,446段の石段を登る石段詣が本道だ。
随神門授与所前
登坂の入り口直近の出羽三山駐車場に駐車し、授与所にてご朱印を受けたら、随神門をくぐって石段詣が始まる。
随神門
随神門直後に参道唯一の下り:継子坂があり、下りきると両側にいくつかのお宮があるので参拝してまわる。
さらに進むと、祓川にかかる赤い「神橋」があり、渡って上流側の「須賀の滝」を拝む。
神橋
須賀の滝
須賀の滝から神橋
樹齢千年以上といわれ天然記念物に指定されている「爺杉」
国宝「五重塔」は、残念ながら改修工事中で足場が架かかり姿を見ることができない。次回の楽しみにする。
五重塔を過ぎると「一の坂」
続いて、長く急な「二の坂」
二の坂を登り切れば「二の坂茶屋」
二の坂茶屋からは日本海が望める。
名物「力餅」あんこ×3+きなこ×2+抹茶=950円
力餅でパワーを付けたら最後の「三の坂」を一気に登る。
途中の「埴山姫神社」は縁結びの神社、赤い紐を結ぶと縁結びの御利益があるとされる。
左手に「斎館」みえたら山頂ゴールはもうすぐ。
石段を上りきり、鳥居をくぐれば羽黒山山頂到着。
山頂には、蜂子皇子を祀る「蜂子神社」などたくさんの神社がある。
いよいよ三神合祭殿に着いたが、今日は例大祭「花祭り」開催日、神社前では祭り行列の準備が行われている。
花祭り
花祭り行列最後尾
三山の神輿が御手洗池(鏡池)の周りを練り歩き、稲の花に見立てた造花をつけた梵天が神輿の行列に加わる。
神前に供えられた花は魔除け、豊作のお守りとして霊験があるといわれ、鏡池を一周した後、この花を頂ける。
三山を祀る「羽黒山三神合祭殿」
鏡池遙拝
鏡池から出羽三山神社
羽黒山石段参りは2,446段、約2kmの道程を、途中の二の坂茶屋での10分程の休憩を含み約60分で登り切った。
一般に90分の登り行程と言われているが、小雨降る中、実質50分弱で登り、まあそれほどの難業でもなかった。
そして、次なる前世「月山」へ向かう。
〜鶴岡〜
山形県鶴岡市にある羽黒山、月山、湯殿山の総称「出羽三山」は、日本三大霊山の一つとして知られる。
千四百年以上前に開かれ、祖先の霊魂、山の神・海の神が鎮まる山として古くから信仰を集める日本屈指
の修験道の霊山。
三山は峰続きで、主峰が月山(1,984m)、北に羽黒山(414m)、西に湯殿山(1,504m)が位置する。
羽黒山が現世、月山が前世、湯殿山が来世という三世の浄土を表し、出羽三山への参拝は、江戸時代から
現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」として広がった。
・羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)
・月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)
・湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)
一般的には、羽黒山→月山→湯殿山の順に巡礼し、江戸時代には出羽三山に詣でることを「西の伊勢参り」
に対して「東の奥参り」として人生儀礼の一つとする風習があった。
そんな人生儀礼「生まれかわりの旅」に詣、生まれ変わったついでに周辺観光をしたので記録と記憶に残す。
鶴岡へ
出羽三山のある鶴岡市へは自宅から約350km。関越自動車道→北陸自動車道→日本海東北道を走り継ぎ、
最終の朝日まほろばICにて高速道を降り国道7号線をしばらく走れば、左手に日本海が現れ海岸線沿いの
快適なドライブとなる。
先ずは、クラゲ展示で有名な鶴岡市立加茂水族館を目指し、国道7号から分岐してさらに海岸線を走ると景
勝地「由良海岸」に着く。
由良海岸の白山島白山神社に参拝
さらに海岸線を10分程走ると、鶴岡市立加茂水族館に到着。
加茂水族館は世界中の約80種類のクラゲが展示される世界最大級のクラゲ展示室がある。さらに庄内地域
で見られる淡水魚や海水魚、さらにアシカやアザラシなどの海獣も見ることができる面白い水族館。
クラゲを楽しんだら、鶴岡市内に向かう途中にある海の守護神・龍神の寺として知られる「龍王尊善寳寺」参拝。
貝喰の池
五重塔
山門
昼食は、寝覚屋半兵エで庄内名物の麦切りと生そば。麦切りはうどんと似て非なるものかなと?
鶴岡市は、庄内藩の鶴ヶ岡城があった城下町、徳川四天王筆頭「酒井忠次」の孫・忠勝が初代藩主となって
以来、明治維新まで12人の酒井家歴代藩主が安定して治めたため、市内には歴史遺産が沢山残されている。
酒井忠次は大河ドラマ「どうする家康」で大森南朋が演じている。
庄内藩の鶴ヶ岡城址「鶴岡公園」に建つのが荘内神社
鶴岡公園内には、小説家「藤沢周平」記念館、周辺には庄内藩の藩校等歴史遺産がある。
庄内藩校「致道館」
豪商風間家住居「丙申堂」の杉皮葺き石置屋根
街歩きで疲れた体を鶴岡の奥座敷といわれる「湯田川温泉湯どの庵」で癒し、明日の出羽三山参拝登山に備える。
現世の幸せを祈る羽黒山参詣へ
]]>
吉水神社は、かつては吉水院(寺院)と呼ばれ、後醍醐天皇が南朝を開いたときに行宮
(皇居)を置いたことで有名だが、それ以前にも、源義経が兄の頼朝に追われて吉水院を
頼り、静御前や弁慶とともに隠れ住まわれたことでも知られている由緒ある寺社だ。
義経は、その後弁慶と共に山伏に姿を変え大峰山をめざし吉野落ちを静御前としばしの
別れるという話は、義経(牛若丸)や弁慶の登場するいくつもの物語に描かれている。
また、1594年の豊臣秀吉の花見の宴では、本陣となり秀吉が数日間滞在して、歌会や、
お茶会などが催された。
そんな吉水神社は、吉野山の東に位置し吉野温泉元湯入り口脇の急坂を15分ほど登って
いくと現れる。
吉水神社門
境内からは一目千本といわれる通り、中千本上千本の桜の植わる山々が一望できる。
一目千本
中千本上千本の桜山
中門
吉水神社参拝は、二礼・十七拍手(4+4+4+4+1)・一拝という日本唯一の参拝法
この参拝法は、吉水神社には十七神が祀られていることから。
拝殿
日本最古の書院造りと言われる書院には、源義経・静御前潜居の間や、後醍醐天皇玉座
があり、多くの宝物・文化財が展示され往事が偲ばれる。
後醍醐天皇玉座
書院庭北側に、古来より修検者(山伏)達の邪気祓い所であった聖地「北闕門」がある。
山伏達は、吉水院で大峰山への入山許可を戴き、無事平穏に下山できるよう祈ったそうだ。
北闕門
後醍醐天皇も朝夕必ず北闕門に立ち、京都の空を仰ぎ九字を切り祈ったとされる。
「九字真法」による邪気祓いは、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九つの言葉
を唱え、それに合わせて手を刀に見立て、陰陽道の四縦五横に空を切るお祓い法。
りん びょう とう しゃ かい じん れつ ざい ぜん
臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前
邪気祓い「九字真法」
北闕門の手前に、五芒星(☆印)セーマンと九字切り格子印ドーマンが、刻まれた石版が
設置されていて、セーマン上で手を刀印に組み呼吸を整え、ドーマン上で九字を唱えながら
横縦に空を切り、最後に掛け声「エイッ!」と共に刀を斜めに振り下ろし、手刀を組みセー
マンドーマンと3回唱える。
「エイッ!」
北闕門左手遠方には、金峯山寺蔵王堂(修理工事中)が望め、国軸とされる吉野山が究極
パワースポットと実感できる。
金峯山寺蔵王堂(修理工事中)
吉水神社より参道を行けば、昨日通った蔵王堂から続く道幅狭い吉野山メイン通りに出る。
吉野山メイン通り
もっとも、こちらが鳥居のある正面入り口で、吉野山山上へ登る街道と如意輪寺への分岐
にある勝手神社(跡)にお参り。勝手神社社殿は2001年(平成13年)に焼失している。
勝手神社鳥居
勝手神社前を右折して吉野山山上へ上る街道を行けば、大峯奥駆け道に続き、修験道道場
としての威容を誇る大峯山寺、さらに大普賢岳〜八経ヶ岳・弥山神社〜釈迦岳へと尾根伝い
の修験の道、そして先に訪れた玉置神社〜熊野本宮大社に至る。しかし、大峯山/山上ヶ岳
は今なお女人禁制、今回は残念?ながら女人同行のため、大峯奥駆け道〜大峯山寺参詣は諦
めることにする。
大峯山寺への道
ぜひ、機会があれば大峯山寺参詣を果たしたいと、吉野に祈願して帰途に就くことに。
帰路も、約480kmをひたすら走り、7時間ほどの運転で霊場から現実世界に戻ろう!
これで「紀伊山地の霊場と参詣道」を駆け足で巡った参詣記を 終わり ます。
長文お読み頂きありがとうございました。そしてお疲れ様、またをお楽しみに?!
吉野山は、大峯奥駆道の起点吉野川柳の渡し近く、大峰連山北端霊場「吉野・大峯」
の拠点である。桜の名所としても有名で、谷や尾根を埋める桜は総数3万本余、麓から
下千本、中千本、上千本、奥千本といわれ、春には順に開花し、山を染めていく様子は
桜花爛漫、正にお見事。
吉野の桜は、役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山寺を開くにあたり、桜の木に感得
した蔵王権現を彫って本尊とし、桜を御神木としたことが始まりとされている。
吉野の花見といえば、豊太閤秀吉の花見が歴史上有名で、秀吉が絶頂の勢力を誇った
1594年、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将や、茶人、文化人
たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで吉野山で花見の宴を催したと伝えられている。
吉野山参詣は、吉野川近く吉野山麓に鎮座する後醍醐天皇を祀る吉野神宮から始まる。
吉野神宮鳥居
後醍醐天皇は1318年(文保2年)天皇親政を志し、北条氏を倒し建武中興成就したが、
足利尊氏の造反により1336年(延元元年)12月吉野山に遷幸され、吉野朝廷:南朝を
樹立し、「吉水院」を行宮(皇居)に定めた。
それ故、明治維新による天皇親政復古にて、吉水院に1874年(明治7年)後醍醐天皇
をお祀り、1875年(明治8年)「吉水神社」となった。
吉野神宮は、天皇奉祀神社が一寺院(吉水院〜吉水神社)では不見識として、1889年
(明治22年)6月に新たな「吉野宮」を創立し1892年(明治25年)吉水神社より後醍醐
天皇御宸像を奉遷し、1918年(大正7年)に「吉野神宮」となった歴史新しい神宮。
吉野神宮神門
吉野神宮参詣後は、さらに吉野山を登っていくと、急に道が狭まり両側に商店や寺社等
が並ぶ吉野山の中心地となる。狭い道には驚きはしないが、大型車両も走るので要注意だ。
吉野山の通り
小さな黒門をくぐると、突き当たりに金峯山寺正門の壮大な仁王門が現れる。残念なこ
とに仁王門には足場がかかり養生シートに覆われている。
左折し道を進めば、右手に金峯山寺蔵王堂入り口がある。幸いなことに、蔵王堂真ん前
の食事処の駐車場が空いているのですかさず駐車、先ずは昼食をとり、腹を満たしてから
金峯山寺参詣に向かう。
蔵王堂門前
金峯山寺は、白鳳時代に役行者が、古くから聖地とされた吉野山から続く大峰山脈山上
ヶ岳/金峯山山頂にて、一千日間参籠修行にて感得した金剛蔵王大権現ご本尊を山桜の木
に刻み、大峰山頂上と麓の吉野山にお祀りしたことにより開創された。以来、多くの人々
から崇敬をうけ、修験道の根本道場として大いに栄え、金峯山修験本宗の総本山として、
全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっている。
現在、国宝金峯山寺仁王門大修理工事が令和10年度の完成を目指して行われているため、
本堂である蔵王堂にも外部足場が架かり、その姿を見ることはできない。
蔵王堂全景(工事中)
金峯山寺の本堂は南を向き、仁王門は北を向いているのは、熊野から来る巡礼者と熊野
に向かう両者に配慮しているのだそうだ。ちなみに、仁王門に安置されていた重文の高さ
5mの金剛力士像は、修理工事完了まで奈良国立博物館に展示されている。
蔵王堂
蔵王堂内部は拝観できるので、足場をくぐり御朱印をいただいてから、拝観する。
不動明王
蔵王堂を参詣した後は、駐車した食事処隣の吉野本葛菓子専門店にて、製造云々を聞い
た後、吉野本葛製の葛もち、葛きりを食す。味は??美味しいことにしよう!!
葛屋 中井春風堂
ちなみに、吉野本葛は100%葛粉、吉野葛は50%芋等の澱粉を混ぜたものだそうだ。
吉野本葛製の葛もち、葛きり
本場吉野本葛を食したら、車をさらに進め町並みを外れた所にある後醍醐天皇の勅願寺
とされる如意輪寺を参詣する。
如意輪寺本堂
如意輪寺は、延喜年間(901−923)に日蔵道賢上人により真言宗寺として建立され、
後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際に、後醍醐天皇の勅願寺と定められ南朝の勅願寺とも
なり、境内には後醍醐天皇塔尾陵と南朝皇族の世泰親王墓がある。
後醍醐天皇塔尾陵
世泰親王墓
その後、真言宗から浄土宗へと改宗し、念仏を弘通し、御陵を守護するお寺として現在
に至っている。
如意輪寺を参詣したら、一度左回りに道を下り、吉野山東側の沢筋にある吉野の隠し湯
といわれる一軒宿「吉野温泉元湯」に向かう。
吉野温泉元湯
吉野温泉元湯は、300年ほど前に開湯され全国各地の文人墨客が吉野山の桜と史跡景勝、
大峯山修験の道場に多くの修験信徒が訪れ愛された「吉野の湯」。
吉野温泉元湯で、ゆっくり旅の疲れを癒したら、明日は急坂を登って吉水神社をご参拝。
]]>
宿坊は、仏教寺院や神社などで僧侶や参拝者のための宿泊施設で、基本的に高野山を訪れる
のは全て参拝者となり、宿泊する場合は宿坊となる。なお、高野山の宿泊施設は宿坊しかなく、
一般的な旅館やホテルは無い。高野山は寺社町なので、一種の利権でもあり、高級ホテルに泊
まりたがる客はいないのだろう。但し、中には温泉付や、高級ホテル並の施設もあり、価格も
格式もかなり高い宿坊もあるようだ。まあ、本格的な宿坊に泊まるのも一興。
護摩行
今回は、高野山東の奥の院一の橋近く宿坊「準別格本山恵光院」に宿をとる。
恵光院
早めに宿泊手続きし、阿字観(瞑想)を行う。食事は、精進料理だが結構いけるし、
頼めば若い僧さんがビールも持ってきてくれるので、何の問題は無い。
精進料理
残念だったのは、夜に予定していた奥の院ナイトツアーが、熊出没により中止となったことだ。
朝は、朝風呂で身を清めた後は、勤行に参加し、金剛院毘沙門天で護摩行を行い祈願。
金剛院毘沙門天
金剛院毘沙門天護摩行
高野山奥之院は、高野山信仰の中心であり、弘法大師(空海)が入定している聖地だ。
入り口の一の橋から御廟まで約2kmの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、
祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいる。
参拝は、正式には一の橋からなのだが、一の橋には車が駐められないため横目で眺め通過し、
車道に接する「中の橋駐車場」に車を駐め参拝することに。
高野山奥之院(中の橋入り口)
駐車場からの新しい墓地には、近年造立されたであろう大企業や団体の墓石が立ち並ぶ。
墓地へ
御廟に近づくと参拝道脇には、天下に名の知れた歴史に残る諸大名や宗教家等の名家の墓石や
供養塔が立ち並び、やがて、御廟橋手前に建ち並ぶ御茶処(頌徳殿)、御供所にたどり着く。
御廟への道
法然上人墓所
御供所にて御朱印をいただいた後は、いよいよ御廟にご参詣。
御廟橋を渡ると御廟のある霊域となるので、服装を正し、礼拝してから渡る。
御廟橋から先の写真撮影は禁止なので注意!。
御廟橋
奥之院の御廟橋の正面にあるのが、3間4面構造・檜皮葺・宝形造の御廟。
御廟
834年(承和元年)に空海自らが、現在の地に廟所を定め、翌年3月15日に入定が近いことを
弟子らに告げ、3月21日午前4時に永遠の瞑想へ入ったと伝わる。
御廟では空海が今もそこに生き、世界平和と幸福を願い瞑想を続けていると信じられている。
高野山行事は年間を通じてたくさんあるが、御廟で待つ空海に1日2回食事を届ける「生身供」
は入定後から現在まで1200年続けられている。御供所にて調理された食事を、嘗試地蔵で味見を
経て、2人の僧が案内人を先頭に白木の箱に納めて担いで御廟へと運ぶ。御廟橋を渡って燈籠堂
の中へ食事を供え、読経して再び御供所へと戻るそうだ。
御廟にて生身供の一行に出くわしたが、残念ながら撮影禁止なので、記録には残せなかった。
姿としては見えない弘法大師空海は確かにそこにいて、そこには、今までもこれからも変わら
ない厚い信仰が息づいている。
豊臣家墓所
ビルマ塔、 毛利家墓所
肥前島原松平家墓所
汗かき地蔵
御廟にてお参り、護摩木に願い事を書いてそなえ祈願して、お線香をあげて供養をする。
奥之院のお参りを終えたら高野山を後にして、次の霊場地である吉野山に向かう。
吉野への道
高野山から吉野山方面へは、国道371号を北上して橋本市に出て、紀ノ川沿いを東へ遡るのが
最短距離なのだが、国道371号はまたしても、ナビも指定しない蛇行する下りの狭あい道路。
吉野への道
]]>
高野山は、弘法大師(空海上人)が、816年(弘仁7年)に真言密教の根本道場として定め
修行僧の修禅観法と、自らの入定のために開いた日本仏教の聖地だ。
高野山という山がある訳ではなく、行政区画の高野町そのものが高野山で、高野町は高野山
を中心として町が造られている。
高野山の中心が弘法大師が命名した金剛峯寺であり、高野山一帯の総称でもある。
高野山の西方入口にあるのが、高さ25.1m、五間三戸の二階二層門の一山総門の大門だ。
大門(正面)
大門の左右に江戸中期に活躍した大仏師運長(左)と康意(右)作、日本で二番目に大きい
金剛力士像(仁王様)が安置されている。ちなみに一番は東大寺南大門の仁王像。
大門(仁王像)
正面には「日々の影向を闕さずして、処々の遺跡を檢知す」という飾り板「聯」が掲げられ、
「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡って私たちをお救いくださる」という意味、
同行二人信仰を表している。
大門(聯)
大門(全景)
大門南側にある見晴らしの良い丘には地蔵尊「お助け地蔵」が祀られている。このお地蔵様
に祈ると病気がたちまち平癒するそうで「一言地蔵」や「一願地蔵」の別名もある通り、一つ
だけ願いを叶えてくれる。
お助け地蔵
大門右側の車道を通り、高野山に入っていくと、先ず左側に現れる金剛峯寺施設が壇上伽藍。
壇上伽藍は、弘法大師(空海)が高野山を開山した際、真っ先に造営に取り組んだ場所で、
密教思想に基づく曼荼羅(まんだら)の世界観を具現化したものといわれている。伽藍とは梵語
(サンスクリット)のサンガ・アーラーマの音訳で本来は僧侶が集い修行をする所という意味。
壇上伽藍には、高野山全体の総本堂「金堂」、高野山のシンボルともいえる高さ48.5m「根本
大塔」など19もの諸堂が建ち並んでいる。
壇上伽藍の入り口には、壇上伽藍の正門として五間二階の「中門」が建つ。
中門
中門は、高野山開設2年後の819年に創建され、他の堂塔同様に焼失・再建を繰返し1843年
の大火にて焼失以来、礎石を残すのみだったが、2015年高野山開創1200年を記念して170年
ぶりに再建された。
中門の四偶には、持国天像・多聞天像・広目天像・増長天像の四天王が祀られている。
持国天と多聞天(毘沙門天)は、1819年造立、焼失を免れ後に中門に安置され2012年大仏師
松本明慶師により修復され、広目天と増長天は2015年に松本明慶師の手により新造された像。
中門四天王
中門をくぐると正面に現れるのは、一山の総本堂で年中行事の大半が勤修される金堂。
金堂(正面)
金堂は、高野山開創時建設されたお堂で、現在の堂は7度目再建、梁間23.8m、桁行30m、
高さ23.73m、入母屋造り、SRC造で1932年に建立、1934年落慶。
参拝時には、時節柄執り行われていた彼岸法要に参加して、我が家のご先祖様法要を行った。
金堂(全景)
金堂左手の六角経蔵は、鳥羽法皇皇后の美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため紺紙に金泥
で浄写された一切経を納めるために建立した経蔵。
六角経蔵は、1回転させることにより1回お経を読んだ時と同じ得があるされているので、
頑張って2回ほど回して徳を得る?
六角経蔵
金堂右手奥には、伽藍中心の塔として816年から弘法大師、真然大徳と二代を費やし887年頃
に完成した高さ50m、四面30mの多宝塔様式の根本大塔がある。本尊は胎蔵大日如来、四方に
金剛界四仏、周囲16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた
八祖像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されている。
根本大塔
根本大塔から、大会堂、三昧堂、東塔を順にお参りし、蛇腹道を歩めば金剛峯寺入り口に至る。
大会堂
東塔から蛇腹道
蛇腹道
金剛峯寺は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』というお経より名付けた高野山一山の
総称であった。現在の金剛峯寺は一つの独立した形をなして、座主の住寺であり、高野山全体を
総轄し、高野山真言宗の総本山として、全国4千弱の末寺をまとめ大師信徒の信仰の中心となる。
金剛峯寺入り口
正門をくぐると正面に金剛峯寺本殿玄関あり、右に鐘楼、左に経堂がある。観光客は右手奥の
通用玄関より入り、御朱印を頂き、拝観料を払って内部を見学できる。
金剛峯寺本殿
大広間や書院等の各室には、狩野法眼元信や山本探斉等名筆による襖絵、壁や天井の装飾が施
され、仏教文化の偉容が観じられる。
広間
蟠龍庭は、別殿の西方、奥殿周りの石庭で、石庭として、国内最大級(2,340?)で、雲海中
で左に雄、右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されている。
蟠龍庭
龍には、弘法大師誕生地の四国の花崗岩、雲海を表す白川砂は京都産が使われているそうだ。
別殿を過ぎると土産物売店もあり、マスコットキャラクター「こうやくん」ドロップを購入。
「こうやくん」ドロップ
金剛峯寺をお参りした後は、周辺を散歩し、早めに宿坊に入り、次は奥之院に参詣する。
]]>
日本一大きな村と言われる奈良県吉野郡十津川村にある十津川温泉は、紀伊山地のほぼ
中央に位置する二津野ダム湖畔の温泉地。蛇行する熊野川上流を二津野ダムで堰き止めた
二津野湖に、支流の山手川・上湯川・西川等が流れ込む豊かな水辺に立地して、露天風呂
に入れば目の前はエメラルドグリーンの二津野湖が広がる。熊野川は、この二津野湖より
上流は十津川と呼ばれ、さらに上流の天川村と五條市では、天ノ川と名前が変わる。
二津野湖
高野山からの熊野参詣道の小辺路は、参詣道の中で最も険しいルートで標高1,000mを
越える峠をいくつも越える。十津川温泉は険しい峠の合間の癒やしの湯であったのだろう。
吉乃屋 露天風呂
十津川から熊野までの和歌山と奈良の県境沿いには果無山脈を越える果無峠があり、峠の
登山口にある果無集落は観光スポットとなっている。
果無集落
上湯川に沿って蛇行する狭あいな林道を車にて登ると、急坂後の道路脇に限定4台駐めら
れる駐車場があり、さらに徒歩にて200mほど登ったヘアピンカーブ突端に世界遺産記念碑
が設置されている。秋桜の咲く参詣道を下れば数軒の民家が建つ果無集落。
世界遺産記念碑
果無集落
今も実際に住んでいる集落のため、立ち入り遠慮して、車道に戻りさらに登ってみる。
果無峠へ
車道からの石段が続く参詣道を行けば果無峠を経て、熊野本宮大社に到達できる。
果無集落付近を散策した後は、林道を戻り上湯川の対岸にある吊り橋と人力ロープウェー
「野猿」に向かう。野猿は、上湯川に渡るワイヤーに支えられた定員1人のヤカタ?で両岸
滑車に架かるロープを引張り川を渡る移動装置だ。
野猿
個人責任にて無料で使用可のようなので、さっそく挑戦する。対岸までは推定50〜60m、
往復100m以上ありそうだが、ちょっとした筋トレと思いロープを引きだす。
野猿
野猿
景色を楽しむ余裕もなくロープを引き続ければ対岸に到達、対岸にタッチして体を反転、
再びロープを引っ張り始点に戻る。最後は、上りとなり腕の筋肉が張るが、やめるわけにも
いかず頑張るしかない。
野猿ラスト
元の乗り場にヤカタを乗せてストッパーを掛ければ無料アトラクション終了だ。野猿は、
元々地域の人たちの橋を渡る交通手段だったが、架橋された後は観光用に利用されている。
野猿で、筋トレをした後は、十津川上流にに架かる谷瀬吊橋に向かう。
谷瀬吊橋
谷瀬吊橋へは、十津川沿いの国道168号を北上する。この経路も数年前まで狭あい道路の
連続だったが、近年数カ所のトンネル開通と整備により、快適なドライブ道路となっている。
谷瀬吊橋
谷瀬吊橋は、十津川村北部上野地地区と対岸の谷瀬集落を結ぶこの長さ297m、高さ54m
の日本有数規模の吊橋で、深い山々に囲まれ、眼下に十津川が流れる絶景の観光スポット。
元々は、川に丸木橋を架けて行き来していた谷瀬集落の人々が昭和29年資金を出し合い架橋
した当時は日本一長い歩道吊橋だった。
谷瀬吊橋から
谷瀬吊橋から
谷瀬吊橋を後に、高野山へ向かう。国道168号を北上し、十津川上流の天ノ川猿谷貯水池、
中原川合流地点を左折してと、離島を除き日本一人口が少ない自治体という野迫川村を通り
狭あいの山岳道路を行く。
野迫川村 雲海景勝地
]]>
熊野古道「中辺路」は、京都→大阪→和歌山を経て田辺に至る紀伊路から、山中に
入り熊野本宮に向かう多くの旅人が歩いた主参詣道だが、高野山から熊野本宮大社へ
の「小辺路」、吉野・大峯から熊野本宮大社への「大峯奥駆道」は、霊場間をつなぐ
修験の道。この区間の熊野古道は、険しい山岳道のため容易に歩けそうもないので、
せめてもと雰囲気を味わいに行くことにする。
吉野から熊野に至る大峯奥駆道の熊野・大峰修験の行場の一つ玉置神社に向かう。
玉置神社へは熊野川沿いの国道168号を戻り、支流の北上川に沿う国道169号を遡上、
葛川大橋手前の玉置口から山道に分岐する。
玉置口付近にある奈良・三重・和歌山にまたがる国特別名勝大峡谷「瀞峡」を観光。
瀞峡
瀞峡は、北山川上流から奥瀞・上瀞・下瀞に分かれ、巨岩・奇石が並び荘厳で美しく、
親しみをこめて「瀞八丁」と呼ばれている。 瀞八丁は、瀞峡の中心地点?で、何故か
人家も少ない山中に瀞駐在所や瀞郵便局もある。
瀞ホテル
北上川 上瀞
瀞八丁には、食堂喫茶を営むレトロな「瀞ホテル」があるが、今日はあいにく休業日、
瀞峡めぐりの「川舟観光かわせみ」も休業なので、川沿いの遊歩道を5分程上流に歩き、
瀞峡にかかる吊り橋「山彦橋」に行く。
山彦橋橋詰め
山彦橋全景
山彦橋 対岸に
山彦橋は1984年(昭和59年)に架けられた吊り橋(長さ83m、高さ25m)、2011年
(平成23年)の紀伊半島大水害にて増水して破損したが2015年(平成27年)に修復された。
大洪水時は、吊橋の高さまで水位上昇することに、改めて紀伊地方の降雨量の多さに驚く。
山彦橋から下流側
山彦橋から上流側
山彦橋を渡った先は、遊歩道があるが、倒木があり整備されていないので引き返す。
紀伊山地の山間道は、国道といえども道幅狭く、蛇行し、起伏も激しい。対向車が来れ
ばすれ違えないので、一方が後退するしかない。そして、多くの場合、ガードレールもな
く崖に接することから、道を外せば転落・お陀仏に近い。
玉置神社への山道
玉置神社への道は、国道169号から分岐後は急坂・蛇行した狭あい道路で延々15km
ほど登ると、玉置神社駐車場に着く。
駐車場から果無山脈を望む
玉置神社は、大峰山脈南端に位置する標高1,076mの玉置山山頂近くに鎮座する。紀
元前37年第十代崇神天皇の時代に王城火防鎮護と悪神退散のため創建されたと伝えられ、
古くより熊野から吉野に至る熊野・大峰修験の行場の一つで、平安時代に神仏混淆とな
り玉置三所権現または熊野三山の奥院と称せられた霊場だ。
鳥居
駐車場から鳥居をくぐり、参道を歩けば樹齢3000年の大杉木立の向こうに鳥居と本社
が現れる。主祭神は、天地開闢の神である「國之常立尊」(くにのとこたちみこと)で、
ご本殿の五柱の神々を中心に多くの神々が境内に鎮座していてる。
右へ行くと参道
神代杉
約二百年前に建替えられた社殿や社務所は老朽化し、現在令和の大改修が行われていて、
内部は拝観できなかったが、大峯奥駈道の極めて重要な聖地だと実感できる。
社殿
社務所にて、御朱印をいただいた後は、境内奥に鎮座している摂社・三柱神社をお参り。
摂社・三柱神社
参道を駐車場に戻り、再び狭あいの山道を下り十津川温泉に向かう。
]]>
熊野本宮大社へは川湯温泉から4kmほどの距離だが、本宮参詣前に田辺市から
熊野本宮大社への参詣道「中辺路」を歩いてみることに。車を本宮大社直近の世界
遺産熊野本宮館駐車場に駐め、バスにて発心門王子まで行き伏拝王子から歩き出す。
伏拝王子
王子とは、熊野古道の所々に設けられた熊野権現のご祭神を祀った祠󠄂〜神社?で、
本宮大社への道しるべの役割があったそうだ。
熊野古道(中辺路)
熊野古道(中辺路)
伏拝王子からの熊野本宮大社へは、ほぼ下りの木立の中を歩く。途中王子や茶屋
もあり、ちょっと寄り道展望台からは「大斎原」の大鳥居が望める。あいにく降り
だした雨にて霞むが、それは幻想的な光景でもある。
ちょっと寄り道展望台
石段の坂を下ると住宅街となり、祓殿王子を過ぎると熊野本宮大社にたどり着く。
熊野本宮大社鳥居
熊野本宮大社のご祭神は、熊野三山共通の「熊野十二所権現」と呼ばれる十二柱
の神々で、主祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ/スサノオノミコト)。
熊野本宮大社階段
熊野本宮大社神門
神門をくぐれば、中央に主神の?家津美御子大神、向かって左手の社殿が?牟須美
(むすみ)?速玉(はやたま)の両神がられ、右に?天照大神が祀られており、交通
安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神として人々を迎え入れてくれる。
正式な神殿内の参拝順序は、?家津美御子大神→?速玉→?牟須美→?天照大神。
社殿
?証誠殿(本宮・第三殿) 家津美御子大神(素戔嗚尊)
?中御前(結宮・第二殿) 速玉大神
?西御前(結宮・第一殿) 夫須美大神
?東御前(若宮・第四殿) 天照大神
授与所にて御朱印をいただき、カラス文字で書かれた熊野牛王神符を入手したら、
参道入り口の鳥居へ石段を下り、旧社地の大斎原へ向かう。
熊野牛王神符
大斎原は、熊野本宮大社の旧社地。熊野本宮大社は、元々熊野川・音無川・岩田川
の3つの川が合流する大斎原と呼ばれる中洲にあったが、明治22年8月の洪水により
社殿の多くが流されてしまった。そこで流失を免れた上四社3棟を明治24年(1891)
に現在地に移築・再建したのが、現在の熊野本宮大社。
熊野川河川敷
熊野川堤防際の大斎原への途中にあるのが、伊邪那美尊(イザナミノミコト)の
荒御魂をお祀りしている産田社へお参り。
産田社
産田社
大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられ、平成12年
(2000年)に旧社地近くに日本一の大鳥居(高さ33.9m、横42m)が建てられた。
大斎原大鳥居
世界遺産石標
世界遺産熊野本宮館を見学し、熊野三山参りを終えたので次なる霊場へ向かう。
]]>
熊野速玉大社へは一度那智勝浦に戻り、那智勝浦新宮道路を東に新宮市に向かう。
那智勝浦には渡海僧を送り出したという補陀洛山寺があるが、今回は通過をして
新宮市の新宮三社に急ぐ。
新宮市には新宮三社と言われる熊野那智大社、阿須賀神社、神倉神社が鎮座する。
先ずは、王子が浜沿いを進み、熊野川河口に面する阿須賀神社へ参詣。
阿須賀神社鳥居
阿須賀神社の、主祭神は事解男命(ことさかのおのみこと)、古くから熊野三山
の神を祀り、平安時代から「阿須賀王子」とされている。元々「地の神様」、海の
高潮などから守ってくれる神様を祀った神社、日本古来の神と仏教信仰とが一体と
なった神仏習合の神社でもあり、大威徳明王も祀られている。
阿須賀神社社殿
熊野速玉大社は、阿須賀神社から熊野川に沿って少し北上した地点にあり、熊野川
を背にして鎮座する。
熊野速玉大社馬返し
熊野速玉大社鳥居
鮮やかな朱色の社殿が印象的な熊野三山の一つで、水の動きを神格化したとされる
熊野速玉大神と熊野夫須美大神、つまり、「日本書紀」でいうところの「伊弉諾神
(いざなぎのかみ)」と「伊邪那美神(いざなみのかみ)」という、日本で最初の
夫婦となった二人を主祭神として十二柱の神々が祀られている。
熊野速玉大社神門
熊野速玉大社拝殿
熊野速玉大社本殿結宮から
熊野速玉大社本殿
摂社の神倉神社は神倉山(標高120m)にあり、熊野三山に祀られている熊野権現が
最初に降臨された聖地とされ、熊野信仰発祥の地といわれる。しかし、神倉神社は祭事
にしか山に入れなかったため、普段お参りする場所として新しく建てたのが新宮「熊野
速玉大社」のようだ。
神倉神社への階段
神倉神社は、速玉大社の西方にあり、全538段ある急な石段を登り切った山頂にある。
神倉神社
御神体ゴトビキ岩
神倉神社の上方には、最大パワースポットの御神体ゴトビキ岩があり、触るとパワー
を得られるそうだ??。毎年2月には、松明を翳した男衆が階段を駆け下りる行われる
勇壮な「御燈祭り」が行われるが、きっと勢い余った何人もが痛い思いをするのだろう。
標高120mの神倉山にある神倉神社からは、眼下に新宮市街〜熊野灘が一望に広がる。
新宮市街〜熊野灘
神倉神社でパワーをもらった後は、さらに熊野川に沿う国道168号を北上して、最後
の熊野三山、日本全国熊野神社の総本山「熊野本宮大社」に向かう。
あいにくの雨降りもあり、時刻も遅くなったことから参詣は明日にして、今宵は本宮
大社近くの「川湯温泉」に泊まることに。川湯温泉は、熊野川支流の大塔川沿いにあり、
川原を掘れば温泉が湧き出るという珍しい温泉で、川原には露天風呂が並ぶ。
川湯温泉露天風呂
大塔川の流れは緩やかで水深も浅く、露天風呂で温まった後は大塔川に浸かり体を冷す
ことができる。
大塔川
]]>
熊野三山は、紀伊半島の先端近く、和歌山県の南東部にそれぞれ20〜40?の
距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」
の三社を言い、古くから神々が鎮座する特別な地域として崇められ、人々の熱い
信仰に支えられている聖地だ。三社は個別の自然崇拝に起源を持つが、三社の主
祭神を相互に勧請し「熊野三所権現」として信仰されている。
熊野那智大社
先ずは、那智勝浦町那智山麓に祀られる熊野那智大社に参詣する。ホテルより、
那智山に向かい10kmほど走ると那智大社入り口の大門坂がある。
大門坂上り
大門坂を歩いて登りたいのが本意だが、時間の事情により門前まで車で登ることにする。
つづら折りの急坂を登り切ると那智の滝入り口がある。車道に面し有料駐車場があるが、
ここは通り過ぎ、那智大社参道階段の目前にある和か屋本店無料駐車場利用がお得で便利。
クランク状の参道階段を登れば、一の鳥居が現れ、鳥居脇には世界遺産の石標。
一の鳥居
一の鳥居をくぐりさらに参道階段登って、直角に曲がりると二の鳥居が現れる。
二の鳥居
二の鳥居をくぐれば主祭神熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、イザナミノミコト)
を祀る那智大社本殿がある、手水舎にて身を清め拝殿をご参拝。
那智大社本殿
続いて、左手の熊野神様のお使いの八咫烏を祀る御縣彦社(みあがたひこしゃ)を参拝。
御縣彦社
御朱印をいただき、御神木の樟の空洞化した根幹を胎内くぐりした後は、隣接する
神仏習合の過程で熊野那智大社と密接な関係を持つ西国三十三所霊場の第一番札所の
「青岸渡寺」をお参り。
青岸渡寺
那智の滝への道を進めば展望地があり、遠く那智の滝の全景が見渡せる。
展望地より那智の滝
道沿いの大黒天堂等をお参りしながら、坂を下り青岸渡寺三重塔越しに那智の滝を眺める。
三重塔と那智の滝
さらに那智の滝への石段を下り、那智の滝入り口の車道に出ると白い飛龍神社の鳥居。
飛龍神社鳥居
那智大滝石碑
那智の滝は、那智の奥、大雲取連山から流れている流水が大滝となり、全山には
那智48滝という数多くの滝があって一番落差がある滝が那智の滝:御瀧といわれる。
那智の滝:御瀧
一の瀧とも言い、落差133m・銚子口の幅13m ・滝壷深さ10m以上、流下する
水量は通常1t/s程度。この滝の上流には二の滝、三の滝があり総称して那智の大滝
とされ、国の名勝となっている。
那智の滝:御瀧
入り口の鳥居をくぐり、石段を下ると、御瀧そのものを御神体としてお祀りする
別宮飛龍神社がある。
飛龍神社
さらに、参入料を納めて石段を登れば、御瀧の一番近くにある滝拝所舞台にて、
御瀧を真正面にて拝観できる。那智の滝の滝つぼの水は延命長寿の水と伝えられ、
ここで飲むことも出来る。
拝所より
飛龍神社にて御朱印をいただいて和か屋本店に戻り、駐車料代わりに土産を買ったら
大門坂を下り、次の目的地の熊野速玉大社のある新宮市へ向かう。
大門坂下り
]]>
紀伊半島の大部分を占める紀伊山地は、標高1,000〜2,000m級の山脈が走る
山岳地帯で豊かな雨水が深い森林を育み、神話の時代から神々が鎮まる特別な
地域と考えられている。
仏教でも深い森林に覆われた紀伊の山々を阿弥陀仏や観音菩薩の「浄土」に
見立て、超自然的な能力を習得するための修行の場とされていた。
その結果、紀伊山地に三つの山岳霊場「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」
が生まれ、古代より自然崇拝に根ざした神道、大陸から伝来し日本で独自の展開
を見せた仏教、その両者が結びついた修験道などの、多様な信仰の形態を育んだ
神仏の霊場となり、そこに至る「熊野参詣道」「高野山参詣道」「大峯奥駈道」
などの参詣道が設けられた。
この三重、奈良、和歌山の三県にまたがる『紀伊山地の霊場と参詣道』は、
自然・霊場・参詣道・取り巻く文化的景観から構成され、世界でも類を見ない
資産として高い価値を持つことから、2004年に世界遺産に登録された。
そんな三霊場にて様々な祈願を行い祈願成就を期すため参詣したので、記憶と
記録に残し、文字に起こして地理と歴史の再認識。そして、どなたかの参考にな
れば幸いとブログをアップ。
霊場への道
住まう北関東から、紀伊山地までは500km超あり、ちょっと遠いが紀伊山地の
現地移動は公共交通では困難なため、自車運転で行くことに。
先ずは、熊野三山参り南の起点となる那智勝浦市まで約580kmをひとっ走り。
ナビに従い一部(佐久南IC〜岡谷IC間)一般道を走ったものの、関越→上信越
→長野→中央→東名→伊勢→紀勢→熊野尾鷲自動車道と高速自動車道路を乗り継ぎ、
2度の休憩と昼食時間を含め8時間ほどのロングドライブ。
最終出口の熊野大泊ICを降りれば、眼前には熊野灘が広がる。
熊野灘
高速出口直後にある名勝「鬼ヶ城」にて、運転疲れの休憩も兼ねて初観光をする。
鬼ヶ城は、熊野灘に面する岩壁が隆起と風化と波の浸食によって生じた自然芸術、
国の名勝・天然記念物として吉野熊野国立公園として世界遺産に登録されている。
鬼ヶ城
遊歩道
海岸沿いの道を走れば日本書紀にも記され日本最古の神社といわれる花窟神社
(はなのいわやじんじゃ)があり、この旅程の神社初参り。花窟神社は古来社殿
がなく、石巌壁立高さ45mの南正面に、玉垣で周う拝所を設けられている。
花窟神社
岩壁
今宵の宿は、那智勝浦温泉の狼煙半島を敷地とし洞窟風呂が有名な浦島ホテル。
運転疲れの癒やしのため早めにチェックインし、狼煙半島の観光と浦島稲荷神社
にお参りする。
狼煙半島先端
浦島稲荷神社
那智勝浦港の夕日
狼煙半島から夕日を見た後は、望帰洞〜玄武洞へと洞窟露天風呂巡りでほっこり。
二つの洞窟風呂は、自然の洞窟を利用して造られ、波打ち際では大きな波が打ち寄せ、
風呂にも飛沫がかかる野趣溢れる露天風呂だ。
望帰洞
望帰洞
※浦島ホテルWebより
那智勝浦温泉の洞窟風呂で疲れを癒したら、明日からいよいよ霊場参詣が始まる。
熊野三山の熊野那智大社へ
]]>
KNOCKOUT〜FINAL
ラグビーワールドカップ2019日本大会が,11月2日(土)横浜国際競技場で最終試合
となる決勝戦が行われ、南アフリカがイングランドを32対12で破り、優勝した!
これで、9月20日(金)日本対ロシアの開幕戦から44日間に渡り開催されたラグビー
世界NO1を決める祭典が幕を閉じた。
大会期間中、開幕戦こそテレビ観戦となったが翌21日からは毎週末に東京スタ
ジアムあるいは横浜国際競技場に通い、世界の強豪達のラグビーを楽しんだ。
日本代表の試合は、残念ながらチケットがとれず観戦できなかったが、死の組と
言われたPool-Cの試合を中心に計10試合のチケットを購入し観戦計画を立てた。
そして、台風の影響による中止(ENG vs FRA:横浜)と諸事情にて観戦しなか
った熊谷Packの試合を除き、スタジアムで直接観戦して応援することができた。
残る試合の多くもTV観戦、Live・再放送・録画にて全試合を観ることができた。
決勝トーナメントからは日本代表を応援したいと、日本のPool-A2位通過を予想
してチケットをとったが、日本代表の予想を超えた素晴らしい活躍によりプール
戦で優勝候補のIreland、宿敵Scotlandを見事に破りPool-Aで全勝し1位通過と
なった。日本人として嬉しい誤算ではあったが決勝トーナメントも日本代表をス
タジアムで応援することは叶わなかった。これも不徳の致すところで致し方ない。
Pool-A1位の日本は、準々決勝でPool-B2位南アフリカと対戦し、フィジカルの
差からノートライに押さえ込まれ、善戦はしたものの敗れ、優勝への夢は潰えた。
それでも、優勝候補筆頭NewZealandのPool-Bでの1位通過を予想してチケットを
とったので決勝トーナメントはNewZealand戦を楽しむことができた。1回戦準々
決勝では、日本に敗戦したIrelandとの対戦となりNewZealandは難なく圧勝したが
準決勝では、打倒NewZealandに燃える元日本代表監督のエディー・ジョーンズ率
いるEnglandとの死闘となりEnglandのこの一戦にかけたフィジカルの前にゲーム
を失った。万全と思われた強者も敗れることがある、人生ままならないことを学ぶ。
負けたNewZealandは、3決へ回ったが世界最高のラグビーチームであり、ボール
ゲームとしたら、実力はNo1であることは間違いなく、その証拠に、決勝戦前日
に行われた3位決定戦では、6カ国対抗王者Walesに対し6tryを奪い快勝した。
決勝は、NewZealandを破り2度目のチャンピオンを目指すEnglandと、準々決勝
で日本を圧倒し、準決勝でWalesとの接戦を制したSouthAfricaとの対決となった。
決勝戦当日、横浜国際競技場には世界中のラグビーファンが集まり、スタジアム
へ向かう新横浜駅から徒歩15分の沿道にはEnglandの白地に赤十字、SouthAfrica
の深緑のジャージや衣装を身に纏う両国応援団はもちろん、既に敗れ去った国々
のジャージを着た多国籍のファンが溢れ、Beerを飲みながら開戦を待っている。
スタジアムには2時間ほど前に着いたが、既に会場内は人々で溢れ、Beer片手に
ラグビー談義?をしている。様々な催しも行われHeineken Beerの売店前は長蛇
の列ができている。当日の観客数は同会場新記録となる70,103人、スタジアムは
世界中のラグビーファンで溢れかえった。キックオフ1時間前には観客席は満席
となり、スタジアム内はEngland応援歌「Swing low, sweet chariot,…」大合唱、
Beer売子は大忙し、BeerBarに長蛇の列、おかげで男子トイレも長蛇の列となる。
試合前の国歌斉唱でスタジアム内は興奮は頂点に達しキックオフの笛が吹かれた!
結果は、両チーム共素晴らしいプレーだったが、南アフリカが勝り3度目の優勝!!
試合後には、晴れがましく表彰式が催され、両チーム選手、スタッフに金・銀メ
ダルが、南アフリカ主将に、秋篠宮さまからウェブ・エリス・カップが渡された。
これをもって44日間のラグビーワールドカップ2019日本大会が無事閉幕となる。
開催前には、日本で行われるラグビーワールドカップを危惧する声もあったが、
チケットは完売し、観客動員数は延べ170万4,443人、各地のファンゾーンにも多
くの人々が訪れ、大会期間中の全会場合計で約113万7千人が来場し、合計すれば
延べ283万人超がラグビーを楽しんだ。「にわかファン」という新たなファンも多
く生まれ、歴代最高視聴率を記録したというテレビ観戦者も含めれば日本中が興
奮と感動につつまれた。参加各国選手や応援の人々からも多くの賛辞が開催地や
日本人に送られ、世界中から訪れたラグビーファンが礼儀正しく友好的であって
問題行動を起こさない紳士淑女であったこともラグビーの魅力として認識された。
ラグビーワールドカップ2019日本開催は、経済面も含め大々成功だったのだろう。
英国発祥のラグビーは「紳士のスポーツ」と言われ、その由縁は一般的には貴族
や富裕層などの上流階級が広めたことにある。長身で重い体躯+スピードが有利
なスポーツは、金持ちしかできないとの意見もあるが、英国のラグビー校で始め
られ、名門校の寄宿舎にて鍛錬されたスポーツは、規律正しくルールを守ること
が義務づけられる。長身で頑健な体躯の大男達がスクラムを組み、タックルをし
モールやラック等で体をぶつけ合い、ボールを奪い合うゲームでルールを守られ
なければスポーツではない。ルールを守れず、自制できない選手は、反則を犯し
相手にPGを与え、重い反則となればシンビン、→退場となり試合には勝てない。
結果、反則をしない、ルールを守る選手で構成したチームが強く、統率のとれた
チームプレー、厳しい練習に耐える精神力、自己管理能力が、選手に求められる。
現にW杯でもベスト8に勝ち上がったのは、反則を犯さない規律正しいチームだ。
結局のところ、ルールを守ることのできる規律正しい人:紳士のスポーツとなる。
国際連盟ワールドラグビーが、公式に定めるラグビー憲章には、次の5つの価値
「品位」「情熱」「結束」「規律」「尊重」であり、礼儀正しく、お互いを尊重
し合い、試合で全力を尽くし、一旦試合が終わればノーサイド(敵味方なし)
と言われるように、友好を深める伝統のあるスポーツこそが“ラグビー”なのだ。
正しくそのラグビーを堪能できた ラグビーワールドカップ2019日本大会 だった。
そして、ラグビーを愛するファンとして観戦、参加できたことに喜びを感じたい。
4年後開催されるラグビーワールドカップ2023年フランス大会が楽しみになった。
日本代表がさらに強化されてベスト4、さらに優勝も狙えるチームになれるか!?
自らフランスに観に行ける体力と財力を維持できるよう、今日から節制しよう!?
]]>
JAPAN日本2019
やったー!日本!ありがとう!!そして、おめでとう!!
ラグビーワールドカップ2019日本大会のプール戦最終試合で、日本代表がスコッ
トランド代表から4トライを奪い完勝、プールA1位通過:ベスト8が決定した!
誰しも願ってはいたが、まさかの快挙だ。もっとも、そのまさかは予選プール第
2戦のアイルランド代表との接戦を制したことから始まる。第1戦にて格下のロ
シアに勝ったのは順当として、アイルランド代表はWC開始時点では世界ランキ
ング1位であり、大型FWと俊足BKが揃い、堅実な攻守、基本に忠実なプレー
スタイルにより2018年欧州6カ国対抗で全勝優勝、同年NZオールブラックス
にも勝利している優勝候補だ。
そして、実力通り第1戦のスコットランド代表戦では4Tを奪い完勝している。
この試合は横浜スタジアムにて観戦したが、アイルランドの強さは本物だった。
日本は、アイルランド戦勝利後でも、まだ予選プール1位通過の100%確証は無
く、前回2015年イングランド大会での、南アフリカ代表戦の歴史的勝利からの
スコットランド戦の大敗、そして、予選プール敗退という悪夢がよみがえる。
それでも、第3戦のサモア代表に完勝し、いよいよ最終戦のスコットランド代表
戦は、日本代表の頑張りと勝利を信じて応援するしかない。日本がアイルランド
に勝ったことにより、惨敗したスコットランドに比べプール戦突破は断然有利と
なったが、日本がスコットランドに大敗してしまえば、敗退となってしまうのだ。
しかし、スコットランド側から見れば日本に4T以上取り大勝しなければプール
戦敗退となってしまう崖っぷちだ。そして、今度はまさかの最悪のケースが無い
ことを心の片隅に秘めて、キックオフを迎えた。
KO早々、崖っぷちスコットランドが日本ゴール前に攻め込み、6分中央ラック
からSOラッセルが対面のPRとSHのミスマッチをついてT!Gも決まり0−7、
ヒョッとしたら?と不安が掠めたが、そんな不安は日本の攻勢に直ぐに吹き飛び、
日本は17分中央付近ラックからショートサイドにラファエレ、松島、福岡を立
たせ、ラファエレからの飛ばしパスを受けた福岡がライン際を駆け抜け、内側を
フォローする松島にオフロードパス、松島は快足を飛ばし左中間にT、田村のG
も決まり7−7の同点とし、25分にはHO堀江のスピン突破から連続オフロード
パスにより最後はPR稲垣がゴール中央に飛び込みT、さらにハーフタイム間際の
39分に中央付近ラックから、ラファエレがDライン裏に転がしたキックを福岡が
巧みに取り左中間にT、Gも全て決まり、前半を21−7で折り返した。
後半に入っても、開始直後に福岡の相手ボールを奪ってからの独走により中央T
(G成功)28− 7とリードし勝利をグッと近づけた。その後、スコットランド
の猛攻により2Tを奪われたものの28−21でノーサイド、日本が勝った。
スコットランド代表との死闘を制し、プールA4戦全勝で悲願のベスト8入りを
決めた日本代表は、プールB2位通過した南アフリカ代表と対戦することが決定。
日本代表は、WCが開始されて以来連続9回目の出場にて初めてのプール戦突破、
ベスト8に進出することができた。
南アは、WCで2回優勝の強豪で、今回のWCに向け順調に強化を図る優勝候補。
日本代表は、前回WCで「ブライトンの奇跡」と言われる勝利を得たが、直前の
9月6日の熊谷での前哨戦では7−41にて、良いところ無く敗れている。
ここは、20日に横浜国際競技場にて行われる準々決勝にて、アイルランドとの
「静岡の奇跡:勝利」に続き「横浜の奇跡」を起こして欲しい。いや、もう既に
奇跡とは言わせない実力による勝利を得よう!勝利に向かい一丸となって応援だ!!
本来なら、日本の準々決勝戦は東京スタジアムで直接応援したかったのだが、残
念ながら20日のチケットを持っていない。持っているのは前日19日同会場で
行われるもう一つの準々決勝プールB1位(ニュージーランド)vsプールA2位
(アイルランド)戦のチケットだ。申し訳ない、日本のアイルランド戦勝利を確
信できずプールA2位を予想し、決勝トーナメントはプールA2位の勝ち上がり
の準々決勝、準決勝、決勝のチケットを買ってしまった。残念だがしかたがない。
プールB1位ニュージーランド All Blacksは、ほぼ予想できたので、日本代表と
の対戦を楽しみに、どちらが勝っても決勝まで観戦予定だった。まあ、予想が外
れたのは結果良しとして、準々、準決は強豪同士の高度なプレーの対決を楽しみ、
日本代表応援はテレビで行い、日本代表が決勝戦へ勝ち上がりニュージーランド
と決勝にて対戦することを期待しよう!!
RWCは「4年に一度じゃない!一生に一度だ!!」の上手いコピーに乗せられ、
9月20日のオープニング試合からほぼ全試合を観戦し、翌21日から毎土曜日
には東京スタジアム or 横浜国際スタジアムに通い観戦している。やはりRWC
は現場に行って、外国応援団とビールを飲みながら観戦しなければ本当の面白さ
は判らない。ハイネッケンビールがもう少し安ければ、言うことないのだが、、
10月12日予定のプールC1位決定戦イングランドvsフランス戦が台風19号
の影響で中止になったのは残念だったが、天気ばかりは不可抗力でしかたがない。
ラグビーは40年以上プレーし、50年近く関わった唯一無二のスポーツ競技だ。
そして、RWCを日本で観戦できるのは一生に一度だろう。こんなに盛り上がる
素敵な遊びである好きなスポーツを継続して、プレーし、見て、関われたことを
幸せに感じ、11月2日まで世界最高ラグビーの決勝トーナメントを応援しよう!
日本頑張れ!!南アに勝ち、決勝まで進んでくれ!!
5月1日にめでたく新天皇陛下がご即位され、新元号「令和」の時代が始まった。
4月30日の上皇陛下ご退位によるもので、このお祝事により10連休となった。
まあ、10連休できるのは大企業や公務員等で、多くのサービス業や中小企業は
関係なく、今日も自らしっかり働いている。それでも、日本の国民的祝事である
ご即位の日には良き時代になれよと祝い、週末に2〜3日休めば心身がやすらぐ。
尤も、10日も休んだら身体が鈍り、頭が惚けてしまいそうで働くことが一番だ。
こんな連休の最終日、人生2度目の御代替わり、令和の始まりに平成を振り返る。
平成の始まりは昭和64年:1989年、日本はバブル経済の真っ直中であった。
今思えば、この頃バブルの危険性が言われ始めたていたのだが、日本中が好景気
に浮かれ、冷静になれなかった。そんな年明け7日、突然昭和の終わりが訪れた。
昭和天皇崩御を知ったのは、宿泊中の苗場プリンスホテルのTVニュースだった。
朝食後に滑りに行くかと着替え中に、緊急放送されるニュースを食い入るように
見た記憶がある。正月明けの冬休みをユーミンを聞きながら苗場で過ごしていた。
これがバブル時代だったのだろうが、こんな昭和の終わり〜平成の始まりだった。
その時の年齢は30代前半、昭和に若く結婚をして、平成の始まりには姉と弟の
二つ違いの子供2人がいた。平成は、子育てに頑張り、楽しんだ時代でもあった。
結婚当初は、余裕がなく貸しアパートに住んでいたが、子供達の成長にともない
持ち家を建てたのも平成の始まりだった。子供達は健やかに育ち、小さな頃から
仲良く遊び、毎日曜にはラグビー練習に連れて行きグランド片隅で遊んだものだ。
毎夏冬の合宿や遠征にも行き、平成元年はニュージーランド遠征にも同行させた。
平成の始まりに姉5歳弟3歳、元年のNZ遠征以降は毎年海外旅行へ連れて行き、
外国にも馴染ませ、国内旅行、夏の海や山、冬の温泉やスキーには頻繁に行った。
そんな子供達は、多少の凸凹はあったが健康で優良に育って、平成時代の中頃に
巣立ち、各々の道を歩み始めている。少なくとも、己が授からなかった教育やチ
ャンスを子供達には与えられたのではと思っている。2人の子供が目指す大学や
仕事に就き、流暢に外国語を操り、世界中を飛回る姿を見ると頼もしくもあるが、
羨ましくもある。明るい家庭を築き、幸せな人生を歩んでいくことを願うばかり、
令和には子供(孫)に恵まれ、年数回で良いので顔を見せに帰省してほしいもの。
平成時代の楽しみの一つに、学生時代から継続してプレーした ラグビー がある。
卒業後の就職先にラグビー部があったので入部し、練習や試合に参加したのだが
同好会活動でしかなく未経験者が多いため、試合に15人集まらない状態だった。
そこで、どうせやるならと同地区にあったクラブチームに参加し、2年目主将に
抜擢されると、さらに強いチームにするために、そのチームを発展的に解散して
地域や出身校に囚われない新しいクラブチームを設立した。そして、強い選手達
を集め、平日は個人練習を、毎日曜にチーム練習を定期的に行い、群馬県下大会
では優勝を重ねトップチームとなり、上位の関東協会クラブ選手権でも優勝した。
平成元年には選手・家族も引き連れ総勢50名強でニュージーランド遠征を挙行。
オークランドやクライストチャーチで地元チームと試合を行い本場の強さ激しさ
本物との違いを体で味合わされた。試合後のパーティーではビールを飲み交わし
健闘をたたえ合い、早飲み競争では負けなかったと、負け惜しみを言ったものだ。
遠征とあわせNZ友好協会使節として、市長表敬訪問するなど積極的に交流した。
よほど面白かったのかNZへは、その後もう1回遠征した。クラブチームで2回
の海外遠征は珍しく、企画から人集め、行程や試合段取りまで全て自らで手配し
たのだから、楽しむための企画を自ら造り出すエネルギーは惜しまなかったのだ。
その後、協会役員として大会運営など地域ラグビーの発展に努め、50過ぎまで
プレーヤーとして走り、身体鍛練と精神安定のためラグビーを楽しませて貰った。
思えば、学生時代にラグビー部を創部して、社会人になってからもクラブチーム
を創部したのは、半端な既存に甘んじるのを嫌い、新しい改革を造り出したのだ。
ラグビーはやせっぽちの少年をいっちょまえの大人にしてくれ、大して運動能力
が無くても、他に14人+の良いメンバーを集め采配を振れば強いチームとなった。
おかげで15歳から40年以上スポーツを楽しみ、良き仲間と豊かな人生を得られた。
今はプレーや協会から離れ、一ファンとして2019WorldCupを楽しみにしている。
平成の始まりの仕事は、技術系サラリーマンとして働いていた。就職先は、非鉄
精錬企業で、専門が土木系衛生工学(水)だったのでエンジニアリング部門にて
生産施設・環境施設等の保守・設計・管理に携わった。その後、系列企業のエン
ジニアリング会社に出向させられ、外販事業を担当して平成の時代に至っていた。
この頃になると、自ら一連の仕事をこなせるようになり、人材不足だったからか
出先一部門を任かされ決裁権も得たことから、バブルでもあり好き放題にやった。
本部には日常の相談や連絡を行わず、事後報告だけしたのは組織の勤め人として
失格だったのだとは思うが、結果としてエンジニアリング建設部門にて営業から
契約〜施工までこなし、他部門に比べ利益を上げていた。決して1人の力でとも
思っていないが、周囲の上役や先輩達ができなかった受注や利益を上げていたの
も事実だった。そんな働き方は一部には認められたが、疎まれていたのも事実だ。
そして、平成5年に退社して起業した。従前より、勤め人をやめ起業する意思が
強くあった訳ではないが、組織内での違和感と疎外感を感じていた頃、他部門へ
の異動を命じる人事発令が直接原因だ。人事異動は、企業人として生きるための
試練なのだろうが、せっかく築いた仕事の流儀は捨てがたく、自ら組織を捨てた。
そのまま勤めていれば、今頃、役員や子会社社長程度には昇進したかもと思うが
それは我慢とストレスの結果だろうから、その時の決断は正しかったと確信する。
大きな志を持って起業したのではなかったが、名目上の退社日時には既に新会社
を立ち上げ法人登記も済ませ、翌日から事業開始していたのだから抜け目はない。
とりあえず、いくつかの建設系資格を取得していたので、建設業や建築士事務所
登録を行い、従前から営業物件を独立した会社にて請負うことで、仕事はあった。
しかし、一般の建設業は一定の利益が有り生活の糧は得られたが面白みに欠けた。
なにせ思うは?下請けはしない、?面白いことをする、?社会貢献、だったから
利益は得られても、既存事業者と関係してただ忙しく働くのは本意ではなかった。
そこで、環境関連事業ができないかと、独立起業した旨を関係の機関に伝えると、
いくつかの引き合いがあり、国内の環境施設の計画、設計申請業務を依頼された。
そのような中、国連環境機関とも関わる機会があり、多くの活動家や環境団体と
交流したことで環境問題や対策の認識が深まり、環境対策事業を主要業務とした。
さらに、環境活動を行うための組織として3つの目的の異なるNPOを設立した。
平成17年ジャパン・ウォーター・ガード、翌18年アスベスト処理推進協議会
平成21年炭素繊維水利用工法研究会を、内閣府より特定非営利活動法人として
認証を受け活動を開始した。当時は、日本国内にも様々な環境問題が有り活動が
活発化し東京都心に事務所を置き、関係省庁の閣僚や国会議員、霞ヶ関の官僚達
とも交流したが、その後の金融危機や政治不安から、国内活動は沈静化している。
平成最後の10年間は、企業活動とNPOとして環境活動を並行して行い、活動
の場は世界へ広がった。日本での活動が、数多くメディアで報道されたことから
環境汚染に苦しむ国々から、相談や引き合いが寄せられた。平成20年に中国へ
初めて行き事業開始してから韓国や台湾から東南アジア、南米やアフリカ大陸へ
と環境改善活動は広がった。近年、資源価格低迷や世界的経済不安から途上国の
需要は減っているが、中国、ロシア、インド等の新興国の水質汚染はすさまじく
改善が求められている。結局、いくらAI等先進技術が開発されても、途上国の
環境負荷は大きくなるばかりで、劣悪な水質汚染を改善する技術は現れていない。
こう振り返ってみると、平成時代はプライベートもパブリックも、様々に能動的
に試んだ時代であった。年齢的にも壮年期であり心身共に充実していたのだろう。
しかし、世界の環境活動は面白いが、営利事業として成功せず利益となってない。
原因は、基本的能力の欠如、出自や同窓の人脈不足、時の運、判断・決断の錯誤
何にも増して金儲けが下手なのだろうが、平成は終わったが、令和の時代が来る。
昭和で30数年、平成で30年、令和は何年?だか判らないがまだまだ頑張れる。
もうしばらく酒池肉林の宴は先にとっておき、老うことなく走り続けるしかない。
令和の時代には美しく調和がとれたより豊かな人生となるよう日々精進しよう!!
「梅は咲いたか桜はまだかいな」と端唄を口ずさみたくなるような季節が訪れ、
二十四節気の啓蟄も過ぎて、日差しに暖かさを感じられる陽気になった。道端の
草木は、いち早く季節の変化を感じ取って、芽生え、蕾が膨らみ花が咲き出し、
毎朝の通勤途上にも白やピンクの花が咲き、梅の香りが漂う。
季節は間違いなく移り変わり、気温が上り、やがて桜が咲けば春の訪れ。日本
の春は美しく芽吹き、開花、誕生、四季の中で最も生命が輝く季節だ。寒さを感
じるのも後僅か、梅の香りを感じながら自転車をこぐ10.5kmの道のりも快適だ。
もうすぐ、冷たい風ともスッキリお別れして、訪れる暖かい春が待ち遠しい。
3月は、学生は進級や進学、卒業、勤め人は転勤や異動、定年、退職と別れの
場面が多くある。どの別れも、季節と同様により良くなるための旅立ちととらえ
れば、少々の感傷はあるものの、嬉しくもあり喜ばしいことだ。
日本に春は確実に訪れるが、東アジア〜世界の政治経済の春はまだまだ遠い。
2月27・28日にベトナムハノイ市にて行われた米朝会談は合意することはで
きず、物別れに終わり失敗といえる。まあ、中途半端な合意は、日本には危険性
や負担が増す可能性があるため、これで良かったのだろう。北朝鮮にとっては、
経済制裁が緩和されず生活は苦しくなるだろうが、自業自得であり情けは無用。
飢餓に苦しむ多くの庶民には気の毒だが、中途半端な経済援助は、核開発継続さ
せ若将軍様を延命させてしまう。打開の道は、内部からの決起や崩壊、武力制裁
しかないのか。期待した拉致問題進展はなかったが、もうしばらく辛抱しよう。
北朝鮮との統一を進める韓国は、日本統治下の朝鮮に於ける独立運動「三・一
運動」の100周年記念式典が3月1日開催され、史実とはかけ離れた反日史観
により、相も変わらず反日運動が繰り広げられた。米朝会談の失敗により親北的
には当てが外れただろうが、反日の盛り上がりだけは凄まじい。文在寅大統領は
「親日残滓清算」を宣言、日本統治時代からの親日派を排して「正義」を取り戻
そうというものだが、反日と正義を一体として国民感情を喚起するのだから、呆
れ果てるしかない。
一方、韓国は経済衰退が著しく失業者増加、大学出ても就職できないのが現実。
これら不満を政権へ向かわせないため、悪事は全て日本の責任とする反日は韓国
や中国の常套手段だ。まあ、こんな韓国とは関わらないのが一番だし無視しよう。
幸い、今のところ韓国との商取引も途絶え、友人との交流も少なくなっている。
韓国の友人達は個人的には良い人だが、現韓国世論の一員であるのでしかたない。
韓国の焼き肉やチヂミ、冷麺は美味いが、食べなくとも生きていける。かつて、
日本が韓国に迷惑をかけたという間違った歴史観や、隣国だから親しくしようと
いうお人好し感覚では、とても韓国とは付きあえないし、付き合ってはいけない。
福沢諭吉翁の「脱亜論」は正しく、韓半島と関わったのが失敗だったのだろう。
ここは百田尚樹著「今こそ韓国に謝ろう そして「さらば」と言おう」の通り
韓国に関わってしまったことに真摯に反省し謝り、スッキリとお別れしよう!
中国では国会に相当する「全国政治協商会議」「全国人民代表大会:全人代」
が始まっている。全人代は3月5日に開幕し15日に閉幕の予定だが今年はどう
も様子が変だ。中国は共産党の一党独裁国家、国よりも共産党が上位にある国家
で、全人代は前年の秋に行われる共産党中央委員会総会で決めた事を広く人民に
知らしめるセレモニーでしかない。
ところが、昨年秋に、中央委員会総会(四中全会)が開かれていない。開けな
かったのは、習近平が対米政策や経済政策、個人崇拝路線への非難を恐れたので
はないかと言われている。全人代直前に開かれた会合でも、現行政策を責め立て
る場面があり習近平体制も磐石ではないようだ。
全人代では、GDP成長目標を6.0〜6.5%、失業者対策、減税対策、民営企業融資、
外資参入緩和などの経済対策が発表されたが、どれも確実性はなく実行は疑わしい。
間違いないのは、厳しい財政から国防費7.5%増額:1兆1899億元(約20兆円)と、
軍備増強を引き続き推進することぐらいだ。
ちなみに環境対策は水質汚染:COD、NH3-Nの排出量2%削減、大気汚染SO2、
NOX排出量3%削減としたが、いずれも13次5カ年計画の年割り数値目標でしか
なく、やる気は感じられない。今後、米中貿易摩擦の行方、経済グローバル化の
曲折、国際金融市場の不安定化により中国経済の低迷 or 破綻も予想されている。
そうなれば習近平体制は崩壊、ひょっとすれば習皇帝とはお別れかもしれない。
そろそろ中国不動産バブルも弾けそうだし、民間企業倒産は相次ぎ、とても環
境対策事業が活発化しそうなく、しばらく様子見していよう。中国ともスッキリ
お別れといきたいがそれも難しい。今も大手国営企業から事業提携話があり、こ
れをきっぱり断れず、スッキリ別れられないのが俗人の浅ましさと反省している。
欧州では、英国EU離脱Brexit期限が3月末に近づき、このままでは合意なき
離脱となり混乱が避けられそうもない。英国のメイ首相は離脱案の議会採択に懸
命だが、英下院の議決がどうなるかは予想できない。
EU離脱期限延長も難しそうで、行方によっては英国民は勿論のこと英国に進出
する多くの日本企業も影響を受けるだろう。これは、英国のグローバル戦略の破綻
と言えるのだろうが、きっかけは安易に国民投票というポピュリズムに訴えてしま
った政治的失策だ。もっとも悪影響を受けるのは製造業や労働者に限られ、あたま
の良い金融業や支配層には被害がおよばないよう対策済みだ。英国のEUとの離脱
も容易ではないが、これも自業自得だし、国家間の別れと出会いも世の常だろう。
春は陽気が良くなり花咲き、生命誕生の季節だが、別れの季節でもある。別れ
は寂しく辛くもあるがもうすぐ訪れる新しい出会いを楽しみに待つことにしよう。
寒い季節とはスッキリお別れして、今月末には桜が開花し、もうすぐお花見だ!
]]>
立春を過ぎたが猛烈な寒気団が日本を包みこみ、北国では記録的な低温となり、
ここ関東地方でも雪が舞い寒い日が続いている。今年は暖冬との予測であったが、
やはり冬は寒い季節と思うしかない。
気候は、年により多少のぶれがあっても、そう大きく変わるものでもなく、こ
んな天気の日は、不要不急な外出を避け普段できなかった雑仕事を片付け、そし
て紀元節の今日、今年初めてのブログを書くことに。
紀元節は、初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日であり明治
6年に定められ、戦後進駐軍により廃止されたが、昭和41年に建国記念日として
復活した国民の祝日だ。なぜ、2月11日かと言えば、日本書紀によると神武天皇
の即位日は旧暦の正月朔日:1月1日とされ、新暦(太陽暦)に置き換え決めら
れている。日本は神話とともに誕生し万世一系の天皇を中心に二千年以上にわた
る歴史をもつ国家に誇りを持ち、日本人であることに喜びを感じたい。
そんな紀元節に思うことは、今年はどうも変、変化が起きそう、変わらなけれ
ばということ。日本国内で変わると言えば、天皇陛下が、皇太子殿下へ皇位を譲
られる御代替わり、それに伴い元号も変わる。立憲君主である天皇の譲位は、日
本の国と国民にとっての重要事であり、お目出たいことと言える。
とは言え、我々の生活に関わることは、即位の日5月1日を中心に10連休となり、
新元号による日付記載方法が変わる位で大きな影響は無いだろう。この変わりの
無い安定が、天皇の存在する日本の素晴らしさで、ありがたいことなのだと思う。
しかし、国内に居ると、生活は安定し平和な暮らしが続いていることから全く
危機感は無いが、ちょいと海外に目をやれば国際情勢の変化が激しくなっている。
仕事柄、海外との取引や交流が多いため、海外情勢は気になるところで、今後の
情勢変化とそれへの対応は、わが身の生活にかかわる重大事項。
国際間の政治経済、軍事は、個人ではどうなるものでも無いが、しっかりと見
極め行動する必要がある。君子危うきに近寄らずで、危ない国とはできる限り付
き合わず、万が一にも被害を受けないことだ。
最も距離的に近い韓国は、慰安婦問題の再燃、いわゆる徴用工訴訟、レーダー
照射問題と、次から次へと難癖を付け反日が続いている。全く呆れるばかりだが、
まあ、韓国とは友好関係は望まず、丁寧でも乱暴にでも無視をするしかない。
いずれにしろ、このまま行けば近い将来韓国自らによる経済破綻や政治崩壊が予
想され、関わらないことが賢明だ。韓国が墓穴を掘るのは一向にかまわないが、
穴が大きくなり過ぎ、引きずり込まれることだけは避けなければならない。
急激な経済発展により、大国となった中国も最近様子が変だ。中国では、旧暦
での正月(旧正月)を春節として祝い、長期休暇となり日本へも多くの観光客が
訪れる。日本で、中国人観光客だけを見ていれば、相変わらず中国は景気が良い
のかとも思えるが、実際の国内情勢は急変している。
2018年GDPは前年比+6.6%と発表されたが−5%とか実質成長は止まった
との評価もあり、米中貿易問題や一帯一路の行き詰まり等により中国経済悪化が
伝えられている。民間企業倒産が相次ぎ、出稼ぎ農民工の失業者が溢れている。
中国とつきあい始めて10年が経ち、多くの取引先があり最近まではいくつもの
引き合いがあったが、昨年後半から激減している。複数の計画中プロジェクトが
あり、正式契約を待つばかりだったが、今年に入り全く連絡が来なくなった。
中国人の悪いところは、自分が必要の時は、頻繁に連絡をよこし此方を急かす
のだが、自分の都合が悪いときは全く連絡をよこさなくなることだ。
まあ、それが自己中の中国人なので今さら腹を立ててもしかたなく、春節も明
けたので、どちらに転ぶにせよ、あてにしないで気長に様子見していよう。
そして、中国も経済破綻の兆候が見えたなら早めに関係を絶つしかないだろう。
もう一つの大国「ロシア」の調子も良くない。ロシアは広い国土と豊富な資源
軍事力により強国として存在するが、経済規模は小さく、外貨を稼げる産業を持
たないため、近年の西側諸国による経済制裁により弱体化している。
重油価格低迷とルーブル為替安により、海外よりの物資輸入は難しいようだ。
日本にとっては北方領土問題の早期返還を求めるために様々な経済協力をしてい
るが、強い軍事力と豊富な資源を有するロシアは柔ではなく、解決への道は遠い。
それでも、モスクワ企業からは春になり雪解けを待って欲しいとの連絡がある。
この点では、中国より遙かに紳士的だが、信用できるかは??。
世界的に見ても米国大統領、英国EU離脱、EU衰退、中東、中南米etcと様々
な不安定要素があり、どう変わっていくか予想がつかない。しかし、中国やロシア
の経済情勢低迷は残念だが嘆いていてもしかたがない。もっとも、人権も認めず、
軍事力による覇権拡大を目指す国家はお引取り願いたいし、付き合いたくもない。
世界の水は浄化したいが、これらの国は環境浄化の前に、先ず自らが正すべきこ
とがあるだろう。それでも、捨てる神あれば拾う神ありで、昨年から始まったイン
ドとの取引、ASEAN諸国からの引き合いも最近多くなった。どんなに科学技術
が進歩し、自動運転やAIが普及しても世界の水質汚染が無くならないのが現実だ。
気がつけば、国内からの引き合いも多くなってきている。従来の取引先が技術の
確かさを認めてきたようだ。そういえば、先日は名古屋市長からも直接電話があり
水質浄化の相談をされた。日本のトップ企業トヨタのお膝元の都市ですら水質改善
を成すことはできず、高い収益を上げても、有効技術に予算投下できないでいる。
そして、今年もいくつかのプロジェクトが始まるだろう。
今年一年どうなるかは判らないが、温々として安定を求めていても面白くは無い。
暖かい家の中や平穏な日常には、面白いことは無いのだから、今年も、何か面白い
ことを見つけに、能動的に働き、彼方此方に出掛けることにしよう。
今年は何が起こるか、変わるか楽しみだ!!
先ずは体力向上に、今日も真っ暗な闇の中に北風に向かい、自転車をこぎだす。
前進していればやがて太陽が昇り、道筋が見えてくるだろう、神様よろしく!?
]]>
旅の楽しみの一つにその土地の「食」があり、インドの食といえば「カレー」
が先ず思い浮かぶ。カレーライスは、日本でもお馴染み一般的な家庭料理として
常に子供の好きなトップメニューだ。昨今は、日本でもインド料理店が彼方此方
にでき、本場風Curry料理?を食することができる。しかし、やはり本場の本物
は違うだろうと、否応なく、毎日のように食したIndian Curryを探る。
インド料理は香辛料スパイスを多用するのが特長で、インド亜大陸は広大で地
域・民族・宗教・階層などによって多くのバリエーションがある。
インド南部のチェンナイは南インド料理といわれ米飯が主食とされるが、ナン
やチャパティーといわれる“粉もの”焼き物もよく食されている。
チャパティーは、小麦粉(全粒粉)を水と捏ねて生地を作り、発酵させずに薄
い円形にのばして焼いたもの。薄いクレープのようでもあり、日本のお好み焼き
じじ焼きの具無しの薄いパンのようだ。この薄いパン:“粉もの”焼き物も、様々
な種類があるが、どれもナンと同じようにCurryに絡めて食べる。
インド料理の特徴は食べ方にもあり、箸やフォークを用いず手で直接食べる。
左手は不浄とされ、右手のみで上手く食べる。レストランでは、フォークもス
プーンも用意されているが、インド人はそれらを使わず上手に食べている。
左手が不浄とされるのは、トイレで用を足した際に左手で洗うことからだ。今
でも、トイレにトイレットペーパーが無いことはよくあるらしく、田舎の安宿に
泊まる際は要注意。もっとも、トイレそのものが無いインドのことだから、トイ
レットペーパーが無いことくらいで驚いてはいけない。
手で食べる習慣からかレストランでは、フィンガーボールが用意される。
インド米というと、インディカ種と言われる長粒種が有名だが、インディカ種
は北インドが主で、南インドの米は少し丸く日本米に似ている。粘り気は少なく
粘り気を抑えた炊飯法としているのでCurryに合う。
Curryは、日本のカレーライスとは似て非なる料理で、多種類の香辛料を併用
して食材を味付けする煮込み料理全般をいう。しかし、我々外国人がCurryと呼
ぶインドの煮込み料理は、それぞれ固有名称があり、本来インドにはCurryとい
う料理は無いそうだ。レストランメニューに「○○curry」と表記されているが、
これは旧宗主国の英国人がインド料理をCurryと総称して世界に伝えたことが主
な理由だ。
香辛料を多用したCurryはとても辛いが、香辛料スパイスの辛さは中華料理の
唐辛子やチリソースの辛さと異なりスッキリとした辛さ?で、後味が残らない。
Curryは辛いが、南インドでは辛さを和らげるヨーグルトご飯(カードライス)
を一緒に食べたり、食後にスィーツ甘味やフルーツを食べ、甘い飲み物(チャイ
やミルク珈琲)を飲む。
日本でカレーといえばBeef:牛肉、Pork:豚肉が具材として一般的だが、ヒン
ドゥ教は菜食主義のため、インドでは牛や豚など動物肉は煮込み具材に用いない。
インドの菜食料理は、脂やゼラチンなどを含む一切の動物の肉や、動物を原料
とする食材を使用せず卵も使用しない。しかし、乳製品はよく使用され、インド
人のほとんどは乳菜食主義者(ラクトヴェジタリアン)だ。
訪れたインド料理店では、インド人はVegetable Curry、こちらはかろうじて
鶏肉が入ったChicken Curryを食する。
インド料理はスパイスのきいた煮込み料理=Curryが主だが、それ以外の料理
もあり、フライや日本の天ぷらのような料理など様々ある。しかし、どれも素朴
な伝統的料理で、手の込んだ美食を望んではいけない。
チェンナイは港町なので、美味い魚料理を食べたいと所望したところ、案内さ
れたオシャレなレストランで出されたのはSeafood Curryであった。
まあ、インドの地方都市に行ったなら、Curryを食べておけば間違いない。
◆インド酒事情
食事の楽しみに、料理と共に楽しむお酒があるが、インドでは一般的に飲酒の
習慣がないようだ。地域により禁酒の州や禁酒の日などがあり、お酒を手に入れ
ることも難しく、酒飲みには要注意。元々、飲酒は王族のみの愉しみで、その後、
王に近い富裕層を中心に飲酒文化が広がったが、今でも一般人はお酒を飲まない。
飲めないわけではなく、酒はインド人のモラル規範からして良くないものと考え
られ、子供のころからお酒は悪いものと親に教育をされるそうだ。見習おう!
酒類の販売や提供は免許制で、街中のスーパーや食品店では販売されず、レス
トランでもメニューに無い。どこで飲めるのですか?と問えば、外国人が宿泊す
る5星高級ホテルだという。それでは、お酒を飲みに高級ホテルに行ってみる。
ホテルでの飲酒は、先ずバーでビール、その後にレストランへ行き食事となった。
どうも、食べながら飲むというわけには行かないようだ。インド滞在中の飲酒は、
このたった1回であり、寂しくもあったが、良い禁酒期間だった。
旧宗主国英国は搾取するのみで、人々にお酒の楽しみを教えなかったのだろう。
最近では、インドでも大企業のビールメーカー(キングフィッシャー)ができ、
インドワインが造られるようになったが、庶民にはまだまだ縁遠く馴染みが無い。
酒の種類も、英国の影響によるのか、ウィスキーやラム酒が一般的のようだ。
インドの人が勤勉で優秀なのは、菜食主義で飲酒しないことにあるのだろう。
動物肉を食らい、酒を飲んだくれていてはインド人には勝てないかもしれない。
南インドチェンナイの食事情が豊かなことは町を歩けば良く判る。人々の集う
市場では、たくさんの野菜や果物が並べられ、色とりどりでどれも美味しそう。
農作物が豊かならば、料理も豊かになるとは思うが、一年を通じて暑く保存が
できないため、調理方法も煮込む、焼く、揚げると簡単で、それを香辛料で味付
けしているのがインド料理だ。
近々に、またインドに行く予定、今度はもっと美味い料理を味わいたい!?
料理の味もお酒の味も、水に影響される。農業用水も調理水もきれいでなければ
料理は美味しくなく、良い水でなければ、良い酒もビールも造ることはできない。
先ずは、日本の美味いカレーライスを食べながら、水質浄化作戦を考えよう!!
つづく?
]]>
南インドのチェンナイ市にNGOジャパン・ウォーター・ガードインド支部が
設立され、本部主催者としての式典出席が、今回のインドミッションの一つだ。
インドに環境団体JWG支部を設立して何をするんだ?意味はあるのか?とのネ
ガティブな意見もあったが、まあ何事もポジティブに始めてみなければ解らない。
支部設立きっかけは、インドの訪問者との会話から始まる。彼らの訪問目的は
日本の環境技術導入とビジネス化で、我々の有する水質浄化技術に関心があって
のことだ。しかし、インド状況を聞いていると、そう簡単でない事が解ってきた。
経済発展著しいインドには、世界中から様々な技術や製品が持ち込まれ、教育水
準も高く、IT分野では、もはやインドが最先端とも聞いている。そんなインド
だから「水」でも、都市部では先端技術が導入され、農村部でも最低限の浄水お
よび排水処理は行われていると思っていた。
インド水質浄化事業として、河川や湖沼の水質汚染対策が必要だが、一般的に
途上国では資金不足や環境意識が低く、結果、水質汚染対策はビジネス性が低い。
ならば、排水処理だと、我々の技術を使えば簡単に処理水質が向上し、既存設備
の機能向上になると提案した。
しかし、訪問者からの良い反応が無く、もしや先端技術や高度処理を求めてい
るのかと思えば、そうでも無さそうだ。聞けば、インドの田舎は、そもそも衛生
的な水道が無い、トイレが無い、排水処理設備が無いの、無い無い尽くしなのだ。
本当に必要なのは、普及させやすい、持続可能な基本的水質浄化技術だという。
ヒンドゥー教は、川に何でも流すことが良とされゴミや廃水等何でも川に流す
捨てるため、汚染は深刻化するばかり、人々の環境美化意識は薄く、水や環境
の知識が欠け、仮にあったとしても増大する廃棄物量、廃水量に対応するインフ
ラ設備が不足し、どうにもならない。結果、街角や河川敷にゴミが溢れ水質汚染
が進行してしまう。
そうならば水質浄化技術の前にやることがあるだろう!とJWG活動を紹介。
「水をたいせつに」「水を汚さない」「水をキレイに」人々の意識向上、教育、
模範プロジェクトにより、インド人自らが水を大切にして、環境保全を実行する
ことでしょうと。そして、彼らはJWG活動に賛同し、ぜひインド支部を設立し
たい、させて下さいとなり、合意し設立となった。
インド支部設立をどのように行うか、事前に多々協議を行いアドバイスをした
が、実際は現地に任せるしかなく、先ず設立宣言し活動を開始することとした。
そして、いよいよ設立式典開催されることになり、招待状が届いた。
設立式典は、10月23日(火)17:00よりチェンナイの“ABK AOTS DOSOKAI”
にて行われた。この施設はインド人向けの日本語学校で、ABK:アジア文化会館、
AOTS:海外産業人材育成協会、DOSOKAI:同窓会という日本とアジアの友好団体
の関連組織なので、親日的であることはもちろん、JWG活動にも協力してもらえ
そうだ。設立式典はティーパーティーから始まり、50〜60人ほど集まったところ
で開始された。
どんなメンバーが集まっているのか解らなかったが、先ずは主賓としての挨拶
を請われお礼とJWGの概要説明を行った。まあ、危なっかしい英語のスピーチ
なので、半分も通じないだろうが、僅かでもPassionが伝わればそれで良しだ。
数人のスピーチの後に、Tamilnadu州内NGOによるパネルディスカッション
が行われた。活発な議論が交わされ意見を求められたが、何せ早口な英語とタミ
ール語の議論にはついて行けず、直ぐに聴衆側となり、その熱心な討論を感心し
て見入っていた。解ったことは、インドにもこんな熱心なNGOとして活動する
人々がいることだ。彼らが、正しい知識と技術、実行力を身につければインドの
環境改善もきっと成し遂げられるだろう。
インドNGOとの親善と活動状況視察のため、いくつかのNGOを訪問した。
最初に訪問したNGOは、チェンナイ市内から50kmほどの郊外にあるEFI
(ENVIRONMENTALIST FOUNDATION OF INDIA)。様々な分野の環境活動
を行っているが、水環境では貯水池整備を行っているようだ。
案内されたWater Bodyは、モンスーンによる急激な増水による洪水を防ぐた
めの貯水池で、日本でも各地に造成されている雨水調整池。日本では公共工事と
して造られているが、インドでは行政は行わず、NGOが引き受けているそうだ。
公共工事は、急激な都市開発にて道路や鉄道などの都市インフラ整備に追われ、
雨水による水量管理施設まで手が回らない。そして、当然のように水質まで手が
回らず関心がない。
その他にも、いくつかのNGOの事務所も訪ねたが、どこも面白そうな人物は
いるが、何をしているのか良く解らない。それでも、環境NGOとして活動して
いるようなので、これらの活動とJWGを結び付け、より多くな活動としていけ
れば、きっといつの日か水環境改善が成し遂げられると信じて、神に祈ろう。
インド女性は、サリーを着こなし、顔立ちも整い美人が多いのだから、きっと
水もキレイにできるハズ!?
つづく?
インドは、日本の約9倍の面積を持ち、北は雪に覆われたヒマラヤの高地から、
南はヤシの木が繁る海岸線まで、ベンガルタイガーやインド象の生息する森林や、
ラクダが行き交う乾燥した砂漠など、多様な生態を有する広大な亜大陸国家だ。
この大国インドは人口は既に13億人を越えもうすぐ中国を抜き世界一に、国連
まとめでは2050年には人口16億人と予想されている。
近年の経済発展により2017年名目GDPはフランスを抜き世界6位となり世界
で最も有望とされる国家の1つで、世界情勢不安の中でも成長が止まらず新興国
BRICSの中でも優等国だ。日本との関係も良好で、多くの日本企業が生産拠
点あるいは市場として進出している。
そんな大国インドだが、日本においては地理上では知っていても関わりも少なく
ほとんど知らないと言って良い。インドで思いつくのはカレー位で、メディアによ
る経済・紀行番組や観光情報では、インドの良い点ばかりで内情は解らない。
発展めざましいインドだが、ご多分に漏れず経済発展と共に環境破壊も深刻化し、
国際報道にて頻繁に伝えられるようになった。2016年世界保健機構WHOの世界
大気汚染都市ランキングでは、トップはイランのZabolであったが、2位と3位は
めでたくインド都市、ベスト20都市中インドの10都市がランキングされるほどだ。
因みに、汚染大国中国はBest20都市中3都市で、他はサウジアラビア等の産油国。
もっとも、中国データの信憑性は??なので、疑わしい。
生命の源である「水」の環境破壊も深刻だ。インド政府政策策定機関「インド行
政委員会」の報告書では「史上最悪の水危機」と表現され、現在6億人が水不足に
直面し、清潔な水を確保できないため毎年20万人が死亡しているようだ。
インドの水の約70%が汚染されていて下水整備が進んでいないことから、廃水の
3分の2が未処理のまま河川や湖沼、地下水などに直接流入し、水質汚染が拡大し
ている。
環境汚染は、途上国の共通課題ではあるが、インドにおいても人口の都市集中に
よるゴミ・廃棄物増加に収集運搬と、焼却処理あるいは埋立処分能力が間に合わず、
人々のゴミ排出方法の不徹底、美化意識欠如により、街角や河川はゴミため化する。
河岸にはPPやPEの袋や容器がは溢れ、今さら先進国でストローだけを無くしたとて
どうなるものでもないだろう。
日常の料理や洗濯からの生活排水、し尿は未処理のまま近傍の河川へ垂れ流され、
水中の酸素は消費尽くされ硫化水素やメタンが発生する等、もはや生物は死に絶え、
藻類も発生できないほどの黒臭水となっている。そして、人々はその畔で、力強く
生きている。
水質汚染はインド全土に広がり、汚染被害が顕著なのが、ヒンドゥー教が聖な
る川として崇めるガンジス川で、生活排水や工場排水、火葬された遺体や遺灰が
そのまま流されている。
ヒンドゥー教徒は、ガンジス川の水が全ての罪を洗い流すと信じているため、
この川で沐浴を行っているが、もはや水を浴びれば洗い流すというよりは、汚染
されてしまうだろう。そして、インドでは40%以上の人々が屋内にトイレが無く、
屋外で排泄しているため汚物、汚水が未処理のまま放流され、水質汚染が進行し
てしまう。
こんなインドから従来よりネットを通じて、水質浄化に関する問合せが度々あ
ったので、いつかはインドへとは思っていたが、遠地であり現実感はなかった。
しかし、ついに昨年インドから直接来訪者があり、水質浄化への協力を依頼され
ると、傍観者でもいられない。
何せ、目指すは「世界の水質浄化」なのだから。。。。
そして、インドより正式に招待状が届き、いよいよのインド訪問となった。当初
はインド政府大臣面談やガンジス川プロジェクト開始イベント等が計画されたが、
日程や準備が整わないため、とりあえず行って現地視察し現状を知ることを主目的
とした。
活動拠点として、南インドの東側ベンガル湾に面するタミル・ナードゥ州の州都
チェンナイにNGOジャパン・ウォーター・ガードのインド支部 Japan Water Guard
- India Chapter を設立し、その発足式典も行うこととなった。
なぜチェンナイか?と言えば、最初に日本に会いに来たのがチェンナイ人だった
ためだが、チェンナイは旧マドラスといわれ歴史ある港湾都市で、人口約500万人、
インド有数の世界都市で、南インドの玄関口と言われる。自動車産業や情報技術産
業が盛んなため日本とのかかわりも深く親日的であることから、活動開始の適地で
あろう。
今後活動の活発化と共に、首都Delhiや西部大都市Mumbai等にも支部設置を目指
したい。
そんな、初めてのインド訪問を記憶と記録のためにブログに書き残すことに。。。。
まずは、今回序章として、次回からインド視察のご報告と水に関わる諸事情を!
『史上最悪の水危機』をどうしたら解決できるのか? 良い方向に向かえるのか?
甚だ疑問でもあるが、インドの人々の純粋さと環境を思う気持ち、そして自らを信
じて、まずはできることから始めましょう!!
皆さん、ご協力を!!
]]>
まだ まだ汚れています!!
「陛下、お濠の水が汚染されています」と、弁護士で文筆家でもある清水政彦氏が
文藝春秋2008年12月号に寄稿し、お濠の水質悪化に驚かされたのは記憶に新しい。
そして、氏より直接連絡があり、お濠の水質浄化活動を協力して行うことになった。
当時、2016年オリンピック招致を東京都が目指していたため、それを契機に水質浄
化活動を始めようと企画し、有名芸能プロダクションから協力を申入れられ大いに
盛り上がった。多くの有志や文化人に参加を促し、同じ作家である当時石原慎太郎
知事を動かし、活動開始することとし、オリンピック招致決定が待たれた。
しかし、残念ながら開催地はブラジルリオに決定し、東京都は落選してしまった。
そして、「皇居お濠水質浄化作戦」は活動主旨・原資が得られなくなったためか、
沈静化してしまった。当時のことを思うと、オリンピックとは関係なく活動を開始
するべきだったと反省しているが、これも我が身の未熟と実行力の無さと思う。
あれから10年、東京都は次のオリンピック誘致に成功し、2年後の2020年には
東京オリンピック開催が決定している。前年の2019年には東京を中心にラグビー
ワールドカップも開催される。しかし、日本の首都東京、そして日本の象徴である
天皇の住まわれる皇居のお濠の水質は、一向に改善されていない。
皇居外苑濠は、ご存じ徳川幕府居城として江戸城築城時に自然地形を活かし築かれ、
水源として江戸へ飲料水供給するため築かれた玉川上水の余水が供給されていた。
玉川上水は、江戸の6上水の一つで、多摩羽村から四谷までの全長43kmが1653年
に築かれた。今でも一部は、東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。
飲料水・産業用水確保や排水処理等のインフラ整備が都市発展の基盤であり、徳川
幕府と江戸市中の発展は、これら上水施設により成されていたわけだ。
明治以降、都市近代化によりお濠は埋立や分断が行われても、玉川上水から水補給
は継続されていた。しかし、昭和45年に西新宿にあった淀橋浄水場が廃止されると
玉川上水からの水供給は停止されてしまった。結果、皇居お濠は都心の閉鎖性水域
となり、蒸発や漏水等による減水を補う水供給は、降雨に頼らざるをえなくなった。
そして問題は、都市整備による下水道建設で、当時いち早く皇居周辺に建設された
のは合流式下水道管路だった。合流式下水道は、し尿や生活廃水と雨水を同じ管路
で下水処理場に排出するため、下水管1本を設置すればよく工期短縮や工事費低減
となり、初期の都市下水には多くみられた方式だ。しかし、台風や豪雨時の大量水
の排出には対応できない欠点がある。その欠点を補うのが「吐け口」で、大雨の際
には呑み込めない水量を自然水域に排出するものだ。皇居周辺の合流式下水道吐け
口はお濠にあり、大雨の際にはお濠に汚水が流入する仕組みとなっている。
つまり、丸の内・大手町のビジネス街や、霞ヶ関・永田町の官庁街から排出される
下水が日常的に皇居お濠に流入しているのだ。大雨の日に、多くのビジネスマンや
官僚がトイレで排出した小便・大便は、そのままお濠に流出しているわけだ。近年、
頻繁に発生するゲリラ豪雨の際には、大量の汚染物質が雨水と共に流入している。
皇居外苑は公園としても親しまれ、四季折々の楽しみがあり、桜の季節には千鳥ヶ
淵には多くの花見客が集う。その桜の名所千鳥ヶ淵南端にも吐け口があり、容易に
歩道から見ることができる。
皇居お濠は、内部は天皇のお住まいであることから宮内庁、お濠は環境省、外部の
下水道は東京都と所掌が異なることに特異性がある。もちろん、各々の機関が何も
やっていないわけではない。東京都は下水道整備を行い吐け口よりの汚水流入防止
をしている。直接お濠を所掌する環境省は「皇居外苑濠水質改善計画」を立案し、
対策を行っているが、その成果は現状を見ても確認できない。省庁には水質改善の
知見や技術があるわけではないため、官庁意向にそう御用学者と自社設備を売りた
いだけのプラント企業が考える対策では浄化効果を期待するほうが間違いだろう。
実施されている対策内容は直接的水質対策として、懸濁物(SS)除去のため凝集分離
ろ過設備を稼働させ、大手町民間ビル地下にも浄化設備が設置されているようだが、
お濠全水量を処理することはできない。大量発生する藻類アオコを単純に物理的に
除去することは場当たり的で根本的解決ではない。大切なのは、アオコを大量発生
させないことで、そのために何をするかだ。
お濠の水底に堆積した底泥(ヘドロ)対策として”カイボリ”をしている。底泥には、
有機物や栄養塩が含まれ、嫌気状態となれば硫化水素やアンモニア等が生成され、
溶出すると水質悪化の原因物質となる。そのため、底泥除去・改質は水質改善に効
果的だが、その方法が”カイボリ”では面白いが、水質改善効果は少ない。
カイボリは、水を抜いて水底を大気に露出させ日干しにするものだが、底泥除去を
ともなわないカイボリは、大きな水質改善効果はない。最近TV東京バラエティー
で「池の水を全部抜く大作戦」が流行っていて、東京都等も便乗している。しかし、
カイボリは水入れ替えによる一時的浄化や外来魚駆除には効果的だが、在来種等生
態系へ悪影響もあり、長期的水質浄化には大きな期待をしない方が賢明だ。やはり、
安定した水質浄化効果を求める底泥対策は底泥浚渫除去するしかない。
2020年東京オリンピック開催が決定し、海外より東京を訪れる観光客が益々多く
なる。観光を経済活性化の国策とするならば、日本観光の大きな目玉となるであろ
う皇居お濠の水が汚れていては、美しい日本とは言いがたいものとなってしまう。
東京駅から真っ直ぐに伸びる美しく整備された道を行けば、日本のシンボル皇居が
現れ、取り囲むお濠の水がアオコ繁茂する汚濁水ではなく、美しい清透水ならば、
訪れる観光客も改めて日本の素晴らしさを感じることだろう。
皇居周辺には、国内外からの観光客だけでなく、外周を走るランナー、大手町や丸
の内のオフィスで働く日本を代表する企業の面々、政治家や官僚がいるはずだ。
ぜひ、自己、自社利益を追求するだけでなく、国や行政、他者に頼るのではなく、
自ら日本のシンボルである皇居お濠の水をキレイにしようと立ち上がって欲しい。
そして、皇居お濠の水質浄化活動から始めて、日本全ての水域を浄化させたいもの。
来年は平成天皇が退位し、めでたく皇太子が新天皇に即位することが決定している。
新元号とともに明るい未来となるよう、先ずは皇居の水質改善を成したいものです。
一緒に水質浄化活動を始めましょう!!
]]>
今年の冬は、ラニーニャ現象からか例年になく厳しい寒さが日本列島に訪れている。
シベリア寒気団は日本海地域に大雪を降らせ、雪の正月となった地域も多いようだ。
世界的にも、北米で発達した寒気団は、米国東海岸に猛烈な大寒波をもたらしNY
では非常事態宣言が出された。Manhattanに住むSonからの情報では新年早々猛吹
雪が続き、最高気温も氷点下が続いている。凍え死なないことを祈りつつ、冬は寒
いものと受け入れて、もうすぐ訪れる暖か〜い春を待ちつつ、力を蓄えるしかない。
寒い新年だがいくら寒くても身体は温かく、気持ちは熱くありたい。寒さなんかに
負けてはいられない。そのためには心身健康が一番と、先ずは神頼みに初詣に行く。
赤城神社
今年一年家族一同が健康でいられるよう、年始には近所の神社を一回りした。神々
に家内安全、商売繁盛、世界環境改善を祈ったが、神様だけに頼ることもいかない。
健康で健全な心身鍛練のため寒気にめげず、仕事始めから自転車通勤を続けている。
夜明け前の出発は、利根川を渡る頃日が昇り始め、朝日を浴びやがて体が熱くなる。
どんな寒さも苦行も試練とし楽しみに変えれば、きっと今年は良い年になるだろう。
混沌する世界情勢は、今年がどんな年になるかは解らないが、少なくても自分にと
って良い年、面白く充実した年としたい。結果の善し悪しは、誰のせいでもなく自
己の決断・行動によるものだ。常に冷静な判断と体力を維持して立ち向かうことし
かない。昨年は、プライベートでは身内に不幸があり振り回され、事業面に好材料
は少なかったが、無事新年を迎えられたのだから、いつまでも囚われていられない。
竪町神明宮
今年はきっと良いことがあると信じて、諸事速やかに柔軟にこなし、喜び悲しみを
力に変え、やるべき事業に立ち向かうことにしよう。今年やるべき事は特別な目新
しいことではなく、世界の環境改善事業をいかに継続し発展させるかだ。
厳冬の澄み渡る青空や清流を見ていると、日本では環境汚染はもはや過去のものと
思いがちだが決してそうではない。日本では、高度成長時に発生した公害問題を、
規制強化や環境技術進歩により解決して、多くの河川や湖沼、海洋は浄化されたが、
新たな環境問題が生じ始めている。世界を見れば、環境汚染は進行するばかりだ。
前橋東照宮
先進国から文明移転され工業化し、さらに市場化された多くの国は、雇用や経済的
豊かを手に入れることはできた。しかし、法規制や環境対策は施さないため環境汚
染は深刻化するばかりだ。経済的な豊かさの代償として、森林は伐採され、未処理
の汚水が垂れ流され続け、生態系は破壊され豊かな自然環境は犯され失われていく。
前橋八幡宮
経済的に豊かになり美味いものを食らい、便利な世の中となっても水や空気が汚染
されていては、本当の豊かさとは言えない。科学技術の進歩は、人類に便利さや快
適さを与えてくれたが、未だ環境汚染を解決することはできない。まったく、何の
ための科学技術なのか解らなくなってしまう。既に進歩史観は間違いだと気づいて
いるはずなのに、今なお科学者は進歩のみを是とし、産業界は利益追求が最優先で、
政治も目先の有権者利益により方向性を変えられない。いくら人工知能が進歩して、
自動運転や便利な家電が開発されても、環境汚染を改善することすらできない。
豊かな自然を有していた途上国は、先進国に資源を提供することにより物質的豊か
さを容易に得る事ができたが、代償として環境負荷が増大して汚染が進行している。
いち早く経済発展した新興国BRICSでは、もはや取り返しの付かないほど環境
が破壊されている。そのBRICS諸国からは、直接相談や引き合いがあり、環境
対策の事業化が始まっている。環境破壊は全ての国で起こっているが、経済的負担
ができない貧困国では環境対策を行う事ができない。そのため、先ずは費用負担で
きる新興国から環境改善事業を行うしかない。
今年は環境改善事業が発展し、世界の水環境が改善されることを願い頑張ろう!!
それでは、次回は情報を整理しつつ各国水事情を深堀りしてみることにしよう!!
楽しみに??
]]>
やっと秋晴れの良い天気になったと思っていたら、台風18号の襲来でせっかくの連休が
騒がしくなった。土曜日に東シナ海からゆっくり本土に近づき、日曜昼前に九州鹿児島
に上陸、西日本に大雨を降らしながら日本列島を縦断、今朝には東北から北海道へ接近
している。住いする北関東も土曜日夕刻から雨となり、日曜日は一日中雨模様だった。
そして、今日は台風一過の快晴だ。
被災された各地の皆様にお見舞い申しあげます。北関東ではいくつかのイベントが中止
となったくらいで大きな被害は無くホッとしている。台風被害を避けるには、災害発生
しそうな場所に行かない、居ない、住まないことが賢明だろう。万が一住んでいたら、
早く避難するか不要不急の外出はしないこと。増水河川、決壊しそうな堤防、急傾斜地、
谷津と災害発生しそうな場所に近づかない、君子危うきに近寄らず、危険予知が重要だ。
せっかくの3連休行楽にでもと思っていたが、危険予知により中止し、しかたないので
できる範囲の仕事をこなし、今日はブログを走り書き。
ここのところ台風や大雨による洪水、土砂災害が甚大となり、昨今の地球温暖化の影響
だとも言われているが、水災害は古くから再三発生してきた。平成3年に日本縦断した
“りんご台風”により各地に大被害が出たのは記憶に新しく、70年前に“カスリーン台風”
が関東地方の利根川・荒川の堤防を決壊させ多くの死者が出ている。
台風や大雨、地震等の自然災害は、天空からの太陽光、地球内部の地殻変動やマグマ、
それらが起因する風や海流、海水温変動により引き起こされる。何が直接原因なのか、
何時、どこで発生するか解りづらく、自然を制御できないとすれば、いかに順応して
いくかだろう。
古来より人類は様々な地球変動、気候変動に対応してきた。できる限りの対応をして、
それでも発生する被害は受け入れるしかない。
台風が通過すれば、大気中の不純物を一掃して台風一過の晴天とともに、本格的な秋を
運んでくるだろう。雨は天からの恵でもあり、大地を潤し、動植物の生命の源となるの
だから、悪者にはできない。台風一過の秋には、豊かな水により育まれた美味しい秋の
味覚も与えてくれるのだから。
空から降るのは恵の雨だけではなく、ひょっとすると北からのありがたくない代物も落
ちてきそうだ。連休前15日の朝方にけたたましく鳴るJアラートに驚かされた。北朝鮮
が今年14回目となる弾道ミサイルを発射し、北海道上空を通過し太平洋上に落下した。
Jアラートは前回(8月29日)弾道ミサイル発射の際にも鳴ったので、いくらかは驚き
が小さかったが心穏やかではない。15日朝7:00には、職場にてメールチェック、返信を
書いているところだった。どこかで、何かが鳴っていると思い見回すとリュックサック
の中のスマホから、ひょっとしたら、またか?と見れば、やはりJアラート。
スマホ文面は、北朝鮮のミサイル発射を伝えるもの、我が身に被害は無いと思いつつ、
ちょっと緊張して、万が一の心の準備をする。具体的なとるべき行動は以下の通り。
・可能な限り頑丈な建物か地下に入る
・窓を閉め、ガス・水道・換気扇を停止
・窓から離れ建物中央に移動
・伏せて頭を守る、耳を塞ぐ
・肌を露出しない
・情報収集(ラジオを聴く、Net、TVを見る)
・まぶたを閉じ、閃光を見ない
Jアラートや避難訓練を大げさだ!具体性がないと、何んでも政府批判のリベラル左派
の輩がいるが、もしもの備えは危機管理の基本であり被害を減らすためには必要だろう。
前回のJアラートの際には、どこへ隠れるんだ?頑丈な建物なんて無い!と戸惑う人が
多くいたため、今回はいくらか文言も改善されている。スマホの文面も前日に改善した
との報道があったばかりだ。北朝鮮だけでなく、陸続きの何をしでかすか解らないなら
ず者国家が存在するうちはJアラートも重宝だ。だが、できることならばより早く目標
コースを検知して北海道上空を飛ぶミサイルならば北関東では鳴らさないでもらいたい。
いずれの国も、直ぐに日本を攻撃するとは思えないが、北朝鮮は「日本を核弾頭で海に
沈める」と宣言しているのだから、万が一の備えはとっておくべきだろう。
世界の全ての国や人が、約束を守るリベラルで常識人ではないことは、既知の事実だ。
国連安全保障理事会が対北制裁を満場一致で採決したが北朝鮮の暴挙を非難しながらも
その黒幕かも知れないのが常任理事国の二つの大国だ。それらの国を悪者というのは簡
単だが、異なる価値観、政治・社会思想、文化を持っていることを認め共存しなければ
ならない。全ての国が生物多様性を守ると同様に人種・宗教・政治・社会思想の多様性
も尊重することだ。多様性を認めないのが二つの大国であっても、台風のように避難す
るのではなく、早く理解し合えるよう、こちらから近づき我慢強く説いていくしかない。
連休中もそんなこんなで騒がしく、本来ならば不要不急の外出はせず家でゆっくり過ご
すはずが、そうさせてくれないのも二つの大国だった。なんやかんやのメールが来て、
メール対応だけでも大変なのに、中国からは国慶節前に来てくれと緊急ご招待の依頼?
これも、お仕事、環境改善、国際親善と思い広東省深セン市へ1人で行くことにした。
早速、お彼岸連休に航空券を手配したが直近の航空券手配は高くて席がない。やっと
金曜日夕刻発−日曜日帰りのJAL香港便を予約、香港経由深セン往復2泊3日強行軍。
帰り便は最後の1席だった。
国内では、1議席を争う選挙が行われる気配もあり、連休の騒ぎは収まりそうもない。
中国の水質改善に貢献することを期待しての中国行き、これで今週の連休も騒がしい。
]]>
9月もそろそろ中頃にさしかかり、やっと天気も安定し爽やかな陽光が降り注いでいる。
直射の日差しはまだ暑さを感じるが、吹く風は涼しさを運び、穏やかな時間が過ぎ去る。
この初秋の休日、雑事の後の昼下がりは木陰でのんびりワインを飲みながら過ごしたい。
とはいっても、どうも最近はゆっくり寝てもしていられないのが現実だ。時に朝方には
けたたましく鳴るJアラートでたたき起こされ、寝付き頃には地震警報で驚かされる。
ボーッとしていると、頭上には北から発せられたICBMが飛び交い、いつ日本に落下
してくるとも限らない。地震や洪水等の自然災害も、いつ我身に降りかかるか解らない。
災いは忘れた頃にやって来るのだ。そんなことで、久しぶりにできた空き時間を休むこ
となく、ブログを書き、現実を直視して、そろそろ社会復帰の準備をすることにしよう。
思えば、今年は何か慌ただしく、生活に余裕を持てず、日常と非日常が入り交じり調子
が狂ってしまった。梅の花が咲く春先に近しい人が亡くなったことも原因かも知れない。
2月に実父が、3月には義父と相次いで亡くなった。全ての生命には限りが有り、いつ
かは死が訪れることは解ってはいたが、いざとなると喪失感があることは否めない。
通夜〜葬儀から49日法要、納骨、そして8月には新盆と、一通りの子としての弔いを
行った。初めての弔事主催であり知識不足から十分だったとも思わないが、勘弁しても
らうしかない。初めて喪主を経験させてもらい、やっと人並みになれたのかも知れない。
これが、長男として生まれた責任であり、親から子への最後の教えととらえよう。長ら
く不仲であった父子関係が、昨年末からの老人施設入所、入院と僅かな期間であったが、
やっと歩寄り、いくつかの会話といくらかの世話ができたことがせめてもの救いだった。
思いや願いはあれど、胸にしまい耐えた人の生き方が、わが身のDNAとなり生き続け、
そして子らへと継続されるのだろう。
プライベートな事象にかまけている間にも、世の中は動き続けて待っていてはくれない。
世の中で起こっているのは、北朝鮮の若将軍様による暴挙や、米国トランプ政権の迷走
だけではなく、況してや日本の与党政権支持率低下や民進党崩壊、女性議員の不倫騒動
だけではない。まあ、政治や経済での問題解決は、喫緊の問題ではあるが何が正しいの
か優劣が付けづらく、先を見通せない不毛であり、その道の専門家に任せるしかない。
森友加計問題なんてどうでも良いし、国会議員の不倫騒動なんて週刊誌ネタでしかない。
自分でできることと言えば、確実に人類に危機をもたらせている地球規模での気候変動
による水の偏在や、地球温暖化、水質汚染等の環境問題解決への関わり合いなのだろう。
今年の夏は、7月の梅雨明け頃に猛暑となったが、8月は雨が多くて猛烈な暑さは無く
過ごしやすかった。反面、夏らしさは感じられずにどこか寂しくもあった。せっかく、
準備した庭先の子供用Poolの活躍が、たった一日の楽しみでしかなかったのだから、、、
過ごしやすい日本の夏は、暑さが苦手となった身には歓迎であったが、周りを見渡せば
そうも言ってられないい。日本国内では大雨による洪水や土砂災害が多く発生している。
地球規模で観ても、水の偏在により洪水と干ばつの被害が起こり、最近でも米国にハリ
ケーン“ハービー”や“イルマ”が襲いかかっている。中国の沿岸部にもいくつもの台風が
上陸し、大きな被害が出たようだ。おかげで、広東省深センでは、予定していた河川の
水質浄化項目の実施が怪しくなっており、世界の異常気象は仕事実務にも影響がある。
水質汚染問題は、日本ではほぼ解決されたが、世界ではそうではない。経済発展を望む
発展途上国では、水質汚染は進んではいるが、解決への余裕はなく関心は薄い状態だ。
一定の経済成長を遂げている新興国では、環境破壊は無視ができない状況だ。そのため、
BRICSといわれる国々から、様々な情報と相談が寄せられる。最近、興味深いのは、
インドの聖なる川「ガンジス川」水質浄化プロジェクトが計画され、インドにそのため
のJWGインド支部が創設されることになった。
ロシアではバイカル湖やカスピ海の水質改善のプロジェクトが開始されロシアの母なる
川「ボルガ川」の水質浄化が求められている。
きっと、世界中にそのようなプロジェクトがあり、実行が待たれているのであろう。
全てのプロジェクトが実行され、それらに関わることができれば素晴らしいことだが、
まあ、そう上手くは行かないし、仮にそうなっても身が持たないことも事実だ。
できる範囲での活動を謙虚にじっくり行う事だろう。
秋の良き日、そろそろ動き出すべく何から始めるかじっくり思案だ。
昼下がりは居眠りしたいが、ゆっくりするのはまだまだ先にして、
これが神様ご先祖様から授かった仕事と思い頑張ります!!
]]>
公益社団法人におい・かおり環境協会発行「におい・かおり環境学会誌 」に
論文を掲載した縁で、同誌コラム「においと私」にも寄稿したのでお読みあれ。
日頃から「におい」や「かおり」への意識は薄い。むしろ鈍感あるいは無頓着
なのだろう。特別に嗅覚が鈍いとも思わないが、日常にて特別な悪臭や芳香に
接する機会が少ないのかもしれない。しかし、わが身の周りにも様々なにおい
が存在している。目覚めれば朝食とコーヒーのかおりで一日の始まりを感じ、
庭先の花々からの良いかおりで心が潤う。仕事場や外出先においても様々なに
おいに接し、自らもにおいを発している。自らが発するにおいは、慣れから感
じることは無いが、他人のにおいは、敏感になったりもする。ひょっとしたら
「おまえは臭い!」と感じている諸兄がいたらご容赦願いたい。
美味しい食物からは良いにおいがして、良いにおいのする食べ物は美味そうで、
食欲を刺激する。魅力的な女性からは芳香が漂い自然と近づきたくなり、煙草臭
や体臭のあるオジサンとは距離を置きたい。良いにおいからは食欲ややる気が生
まれ、その逆もある。そう考えると嗅覚による行動は思考によるのではなく、直
感による本能的行動だ。すると、においは日常行動に欠かせない要素であり、だ
からこそ意識をしていないのかも知れない。
生物に欠かせない物質として「水」があるが、水はどんなにおいがするのだろう
か。水のにおいは? と問われれば、多くの人は「無臭」と答えるのだろう。水
H2Oは無味無臭だが、実際に接する水には多くの物質が混ざり溶け込んでいる。
それら不純物により僅かながらにおいを発している。直接口に入れる飲料水でも、
その原水水質や浄化方法によってにおいが異なる。良質な水源を有する日本では、
飲料水の多くに河川水を浄化した水道水が用いられている。自治体が公共上水道
設備を設け、供給される水道の蛇口から出る水を直接飲むことができる。かつて
は都市部にて水道水の悪臭問題などが話題となったが、近年は高度処理設備の普
及が進み、都市部の水道水は改善され悪臭は無い。
水道の蛇口から直接飲める国は世界中でも僅かだが、その中で日本の水道水はと
りわけ安全・安心で美味しく、においが少ない。もっとも、膜ろ過などで高度に
処理された水道水はにおいもしないが、ミネラル成分等も除去され美味くもない。
水道水の美味しさを阻害する成分は、残留塩素(カルキ臭)やカビ臭だ。塩素は
殺菌のために浄水場にて添加され、法律により一定量の残留塩素量が規定されて
いる。塩素は大腸菌等の感染を防ぐために不可欠で、発生するカルキ臭は必要悪
ともいえる。カビ臭は、河川や湖沼などの藻類や放線菌により造り出されるため、
貯水池などの水質管理対策が重要となる。
水のにおいは無いと思いきや「水臭い」とも言われる。水商売に関わっているた
め、河川や湖沼の浅水域を胴長靴を履いて歩き回ることが多々あるが、水辺には
独特のにおいがあり水臭い。水草や藻類の発生した水域に入れば、それら植物臭
やカビ臭、水底の底質臭が入り混ざり水辺のにおいとなっている。通常の河川や
湖沼の水辺のにおいは嫌いではない。しかし、都市河川等の大量有機物流入によ
る硫化水素やアンモニア臭の発生は不快となる。水質浄化と底泥処理対策を早期
に行い悪臭対策をお願いしたい。
水臭いと言うと、人間関係における比喩的表現がある。意味は親しい関係なのに
よそよそしい、他人行儀と言うことで、由来は食物や飲物が水分が多くて,不味
い、水っぽいことからだ。水臭いと言ってもにおいとは関係なく、味が無い、味
が薄い、水のようだと言う意味だ。水にとっては良い比喩ではないが、水は多く
の物質・成分を溶け込ませ、調味料や旨味成分により味を引き立たせる万能な無
の物質である証だ。
水は、生命にとっても全ての物質にとっても基盤となるもので、水が主張しては
ならず、においや味があってはいけないのかも知れない。だからこそ水を大切に
しなくてはならず、水と水臭い関係になってはいけないのだろう。
終わり
]]>
鐘鼓楼を後に石段を登り、順路に則り見学路を暫く行くと諸葛亮が論戦をし
たという舌戦堂があり、さらに進み階段を下ると、大銀杏のある広場に出る。
広場には、後に蜀の軍師中郎将となる龐統が孫権・劉備軍から距離を置くため
金鸞山中腹に居を構えていたという鳳雛庵がある。龐統は赤壁の戦いの頃は孫
権軍の顧問的な役割にあり、孫権軍に属しておらず陣中ではなく鳳雛庵に待機
したという。長江沿岸の赤壁は、周囲には赤壁山、南屏山、金鸞山の3つの山
が連なり、対岸から押し寄せる曹操軍に対峙し陣を張るのに適していたのだ。
広場から階段を下ると史実を模した様々な構造物や彫像などが設置されている。
赤壁の戦いにおける孫権・劉備軍の勝因は、いくつかあるが最大の勝因は「火
攻め」を行ったことだ。火攻めを成功させたのは赤壁から対岸の烏林へと追い
風となる非日常の東南風が吹いたことで、諸葛亮が赤壁にある南屏山の拝風台
で東南の風が吹くよう祈ったという。諸葛亮は天文学と地理に通じていて冬至
の前に東南の風が吹く日があることは知っていたといわれる。
赤壁モニュメントの前でポーズをとるのは呉(孫権)軍の武将周瑜。三国志
では諸葛亮をはじめとした蜀(劉備)軍の武将たちが有名だが、実際の孫権
・劉備軍の主力は周瑜を総司令官とする呉軍である。
張飛
長坂橋で奮戦する張飛。劉備軍は長坂橋で曹操軍に敗北を喫すがこの戦いでは、
趙雲が単騎で曹操軍に討ち入り劉備の長男である阿斗(後の劉禅)を救い出した
後に長坂橋で張飛が追撃してくる曹操軍を撃退した。
諸葛亮が東南の風が吹くのを祈ったその南屏山に拝風台という建物が建てられ、
劉備、関羽、張飛、諸葛孔明の劉備軍の英雄4人の彫像が祀られている。
ここにも主力の孫権軍が、祀られていないのは、中国で最も読まれている小説
『三国志演義』が、蜀を中心に書かれてるからだ。そんな三国志演義から書か
れた三国志を読んだ日本人も蜀びいきが多い。というよりは正確な歴史として
の三国志は読む機会がなく蜀の武将しか知らない。
拝風台から南屏山を下ると、アオコでキレイ?な緑色の池がある。池の辺で話し
合うのは諸葛亮、正面には諸葛孔明が発達させた機械式弓を放ったという射箭台
がある。船上には兵士を模したわら人形が並び、ここから弓を放ったのだろう。
さらに進めば、長江を望む高台へと出る。正面には長江を横目でにらむ周瑜の
巨大な像がありこの場所が「赤壁」といわれる場所だ。展望台を下れば長江の
岸壁に赤く書かれた赤壁の文字、正しくここが赤壁、対岸が曹操軍が陣を張っ
た烏林だ。赤壁の直ぐ下まで水位の跡があることから、長江が増水するとこの
文字が隠れてしまうほど水位が上がるのだろう。増水時に訪れると、せっかく
の赤壁の文字が観られないこともあるらしい。
長江には、大型船が行き交い複層式自動車運搬船等や貨物船、沿岸には浚渫船
があることから川砂を浚渫しているようだ。
赤壁の高台から、階段を下れば呉の水軍が陣を張ったという広場がある。対岸
の曹操軍を見張り台や、兵士の住居を模したのかテントが何張りかあるがどれ
も大したものではない。見張り台にもハシゴで上れるが危なそうだし、面白そ
うなアスレチック擬きもあるが、どれも安全への配慮は全くされていない。
ここで事故に遭ってもしかたないので「君子危うきに近寄らず」である。
騎馬兵の戦いや曲乗りを見せるための乗馬場が現れる。乗馬体験ができ熱心に
勧められるので、遊び心から挑戦することに!?日本の乗馬体験は手綱を係員
が持ちパカパカ歩く程度のものだが、中国の乗馬体験は違う。馬にまたがり係
員に引かれて乗馬コースに入れば、係員は馬を反転させるとその勢いにて一気
に疾走させる。結構の速さで乗馬場を一周するので、振り落とされぬよう真剣
になる。馬は利口なもので一周すれば元の場所に戻る。落馬したらどうしよう
という思いもあるにはあるが、ついつい面白く2回も乗ってしまい、君子危う
きに近づいてしまった。まあ、怖がっていては楽しめない、これも中国流儀だ。
乗馬を楽しみ、曲乗りショーを観た後は出口へと向かう。テーマパークの出口
付近には、赤壁の時代の呉軍の砦が再現されていて、入口となる橋を渡り城壁
沿いを進み城門を潜ると、赤壁塔と呼ばれる7階建ての物見塔が現れる。高い
ところには登りたくなる習性があるので元気を出して登ることに、最上階から
は長江を望み、先ほど乗馬した乗馬場等園内を一望にできる。
出口付近には金城の陣といわれる建物群がある。金城の陣は十重二十重に防御
線を作って城の中にまた防衛措置を作る小城郭、落とし穴、狼の牙のようにと
がった扉など、難攻不落の陣といわれた。内部の兵站倉庫に位置するエリアは、
観光客の買い物目当て土産物屋となっているが、ここも閑散としている。
いよいよ出口となり駐車場へ戻る。実際の赤壁の戦いがどのように行われたの
かは、定かではないが、三国志好きとしては、この古戦場を観ることにより、
当時を想像するには十分だった。
赤壁の戦いが実際にはどのように行われたのか、何処で行われたのかは諸説あり
はっきりしていないようだが、三国時代に孫権、劉備、関羽、張飛、諸葛亮等の
武将達が曹操と争ったのは間違いないようだ。赤壁の戦いで敗れた曹操は北部へ
逃げ帰り、その後に華北を支配する魏王朝を創設した。
帰ったら吉川英治「三国志」全10巻を読み直そう!?
そんな気にさせてくれた赤壁古戦場観光でした。 また
]]>
武漢市は、三国志の舞台として多くの史跡や遺跡が残る観光名所でもある。
中国では、東漢時代の末期、魏、蜀漢、呉の3つの国に分かれ互いに対立
していた。この時代が三国時代(180年頃−280年頃)と呼ばれ三国志は
この時代の歴史を述べた歴史書だ。
三国時代の黄武二年(223年)呉の孫権は黄鵠山の川の側に夏口城を築き、
大部隊を配置したため周辺に商人が集まり都市が形成された。この場所を
孫権が「武運昌盛」の意をこめて武昌と命名したと伝わり、その内に造っ
た展望楼が現在の観光名所「黄鶴楼」だ。
三国志の名場面「赤壁の戦い」は、のちの魏の礎となった漢の丞相の曹操
が、北部を平定した後、南部も制圧するた大群を率いて領土拡大を図った
ことで起きた。曹操の攻撃にて孤立した蜀漢の劉備は軍師の諸葛亮(孔明)
を、呉の孫権へ使者として派遣した。孔明は孫権の総司令である周瑜と意
気投合し、2つの勢力は共に曹操と戦う同盟を結ぶ。孫権は周瑜・程普ら
数万の水軍を劉備の救援に派遣し、長江を下る曹操軍と「赤壁」で一戦を
交えることになった。孫権・劉備軍は、孔明が追い風となる東南風を予測
し「火攻め」により、3万の兵力で30万の兵力の曹操軍を撃破した。
これが三国志の中心史劇として多くの文学、演劇、映画でも語り次がれて
いる「赤壁の戦い」だ。吉川英治の「三国志」は歴史小説として、面白く
ジョン・ウー監督の映画「レッドクリフ」で一躍有名となった。
そんな赤壁観光に行くことになり、これだけでも武漢にきた甲斐がある。
武漢が三国志の舞台であることは知っていたが、さすがに赤壁までは行け
なかった。今回、湖北大学教授の好意にて行けることになり嬉しい限りだ。
とは言っても、赤壁の戦いが実際にはどこで行われたのかは武漢より上流
と言うくらいしか知らなかった。調べてみれば赤壁古戦場は武漢市の南西
直線距離で約105kmほどの湖南省との省境にある湖北省赤壁市にある。
高速鉄道でも最寄りの駅「赤壁北」まで行けるようだが、車で2時間ほど
の距離らしく、遅い朝にホテルまで迎えの車が来て出発だ。11月にはめず
らしい晴天無風の観光日和にも恵まれ幸先も良い。
高速道路を1時間ほど走り一般道に降りてそろそろ到着かと思っていれば、
突然脇道に入りどこへ行くのかと思えば、田舎の食堂で食事をするらしい。
自家取りの農作物や魚を調理し出す店があるようだ。ところが、最初に入
った店は調理人がいないため食事ではなく山に入りミカン狩り、日本で言
う観光農園だ。農薬は心配だったが食べてみれば思ったより甘いミカンだ。
思わぬミカン狩りを早々に引き上げ、山道を行き次の店を探すと、湖畔に
人だかりのする店を発見。こんな場所のひなびた店に中高年の多くの客が
いるのにも驚きいたが料理は美味く、高級料理より口に合うかも知れない。
昼食の後は、山道を戻り赤壁古戦場へと向かう。道幅だけ広い田舎道を行
くと、突然広い駐車場に着く。赤壁古戦場は、テーマパークとなっていて
駐車場の向こうには巨大な城門があり、その前には中国らしく広〜い広場
がある。その広場に観光客は数人しかおらず閑散としている。聞けば10月
の国慶節の休暇には混雑したが、それ以降は観光客は少なく、日本からの
観光客も少ないようだ。空いているのは幸いであり、ゆっくりと見ること
ができる。
早速、城門入り口から入場すると正面に現れるのが巨大な神武台が現れる。
幅26m、奥行8m、高さ12mのステージで、銅製の壁には虎の絵が彫られ、
この神武台の上から周愉が兵士の訓練をチェックしていたといわれ、赤壁
の戦いの前夜に、孫権・劉備軍の兵士たちが生死の契りの儀式を交わした
と伝えられている。
神武台から左手に向かうと、広場に演舞場があり、観光シーズンには周瑜
や諸葛孔明による閲兵式や演劇が催されるようだが、今は閑散としている。
広場の奥には、船着き場があり左右の城壁と、正面の城門に往時の水軍の
模様が想像される。冷めてみればよくこんなテーマパークを造ったな思う
が、赤壁の戦いを思うには十分であり、こんな巨大施設を造れるのはさす
が中国だし、閑散でも経営破綻しないのが中国だ。
関羽
張飛
孔明
広場から、いよいよ場内散策ルートに入っていく。先ずは鐘鼓楼があり、
その奥には財神殿がある。財神殿に奉られているのは関羽、張飛、孔明の
三人で、主人公は商売の神様と知られる関羽だ。関羽は武将としても有名
だが、義に厚いとされる事から財神、商売の神として中国を始め華僑によ
り世界中の中華街に関帝廟として祭られている。
張飛ガンダム(正面)
(後面)
ただ、鐘鼓楼の前にドーンと構えるのが張飛を模したガンダム?。これは
いらないだろうと思うが張飛ガンダムキャラもあるようで、こんなものも
造ってしまうのが中国だ。商標問題はさておき、史実と空想の英雄を一緒
にしてしまうところが???。
張飛ガンダムに圧倒されたところで長くなったので一休み、続きは赤壁?で、
武漢2日目は下水処理場の視察だ。2箇所の都市下水処理場と薬品工場廃水処理
設備を視察して問題解決提案を求められている。ホテルに迎えがあり車にて出発、
行き先は知らされていないが身を任せるしかない。約1時間30分の行程で着いた
のは、武漢中心部から80kmほど北方にある孝感市孝昌県の都市下水処理場だ。
中国の行政区分を説明すると先ず省級、地級、県級等の都市が定められ、その市
の傘下にいくつもの区や市や県がある。日本の県の中に市がある行政区分と異な
るため、ややこしくて解りづらい。因みに武漢市は副省級市で、武昌区はその市
街区だ。孝感市は湖北省の地級市で孝昌県はその市中にある。
孝昌県下水処理場はオキシデーションディッチ法(OD法)の合流式下水処理場、
処理量:30,000㎥/日。OD法は酸化溝法とも言われ長く、浅い酸化槽(水路)
にて長い滞留時間、曝気を行い維持管理が容易という利点があるが、面積が必要
なため国土の広い中国で多く見らる古典的処理方法だ。現在は中国中信集団公司
グループ企業の一つ中信環境水務有限公司が運営を行っている。中国中信集団は
国営中央企業で中国最大級の産業・金融の総合コングロマリット(企業集団)だ。
中国共産党との関係も深く伊藤忠商事が巨額の出資を行ったことでも知られる。
そんな中国の大企業が地方の下水処理場運営まで手を出している事に驚かされるが
それだけ環境事業分野が巨大であり利益の源泉となるのであろう。そんな中信傘下
の下水処理場にて技術採用されれば、市場は大きく利益も見込めることから大学も
企業も熱心なのだ。
下水処理場は古典的なOD処理方式であり、問題は汚泥処理と脱窒だ。以前に、
武漢市内で視察した下水処理場もOD法だったので、どうもこの辺りで流行って
いるらしい。中国というのは可笑しなもので、一つ良いと思ったら他も全て同じ
に作ってしまうようだ。隣地には、工業廃水処理場が建設予定で概要が標示され
こちらの処理方式は高度処理を取り入れ、OD+MBRだ。
下水処理場視察は終わり次は湖北省一?の漢方薬工場に行くことに。漢方薬工場
の廃水処理は高濃度廃水でありUASB法嫌気処理を組み合わせた高度処理を行っ
ている。高濃度廃水のため処理工程も複雑で改善は何ともいえないが、良かった
ことは、この漢方薬工場にて製造している「マカ」をお土産に貰ったこと。マカ
と言えば強壮剤として効果的でかなり高価らしい。まあ特に必要とも感じないが
飲めば何となく強くなった気がしてくる。お試しご希望のご婦人はぜひ挑戦あれ!?
これで午前中の視察は終わり下水処理場長と漢方薬工場の社長と一緒に昼食だ。
孝昌県市街地の料亭にて、中華料理をたらふく食べ満足。
腹一杯の中華料理を食べた後は、さらに40kmほど北方にあるの広水市へ向かう。
広水市は、地級市の随州市に位置する県級市で市の中に市がある。
広水市下水処理場へ到着して、休む間もなく早速視察を行う。
ここもOD法の合流式処理場で処理量50,000㎥/日で中信集団の運営のようだ。
そして二つの下水処理場とも湖北大学の看板が掛かっていることから、関係が深
く処理場長と教授は懇意らしい。この下水処理場も増設中で、既設のOD槽の隣
に、全く同じ形式のOD槽があり試運転中であった。ここも汚泥処理が問題とさ
れ、汚泥の含水率を下げるため苦労している。既設のベルトプレス脱水機では機
能しないためフィルタープレス脱水機2台を増設する計画だ。
そんな処理方式はさておき、新規処理設備の品質の悪さが気になる。建築屋とし
ては打ちっ放しコンクリート面の目違い、セパ穴の補修がいい加減、スラブ床は
均しただけで仕上げていない等々が許せない。これで許してしまうのが中国の技
術レベルなのだから、この処理場で高度な水処理ができるとも思えない。
中国で本当に必要なのは、高度処理ではなく、普通の設備を、普通に作り運営す
る普通の技術なのだ。もっとも、日本人の普通が中国ではとても高度なのだろう。
そんなことを考えつつ下水処理場の視察は終わり、武漢に戻るのかと思ったら、
広水下水処理場の人と晩餐をともにすることになった。
広水市内の料亭に場所を移し、中華料理のおもてなし、ありがたいようでありが
たくない。そして、再びたらふく食べ、麦酒と少々の白酒を頂き、2時間かけて
武漢市のホテルに戻る。
ホテルは大学側が用意をしたもので、手配の時の要望はバスタブと朝食付きとお
願いした。とかく中国のホテルにはバスタブがなくシャワーだけのところが多い。
5星クラスならバスタブ付きが多いが、4星だと無い場合も多い。夏ならばシャ
ワーだけでもかまわないが、寒い季節は湯槽で温まりたいのが日本人。そんなこ
とで、ホテルの部屋にはバスタブがある。あるにはあるが、場所はベット横の窓
側だ。こんな配置のバスタブ付きの部屋にも以前、杭州で泊まったことがあるが、
全く使いづらい。宿泊目的が他にあればこの配置も悪くないが、ビジネスでの一
人部屋には不便なだけだ。まあ、これも中国楽しみたい。
武漢の公式行事はこれで終了で、視察という名の観光に案内してもらったので
次にそのご報告を。武漢と言えば三国志、三国志といえば「赤壁の戦い」だ!?
]]>
LCCでもほぼ定刻に武漢天河空港に到着。武漢は何度となく来ているが日本から
の直行便で国際線Terminal到着は初めてだ。武漢市は長江の水運により栄えた華
中地域の中心都市で、近年では自動車製造業の工業団地ができ発展し続けている。
しかし、まだ国際航路は少なく、国際線Terminalはこぢんまりとして空いており
入国手続きも時間がかからない。ただ中国の地方空港の入国管理官はどこも無愛
想で歓迎という態度ではない。これも中国、時の経過と共に変わっていくだろう。
殺風景とした到着ロビーにでると、約束通り名前札を持ったホスト役の湖北大学
教授が出迎え車にて武漢市内に移動する。今回は大学からの招聘で全てお任せだ。
車中にて、日本留学経験のある教授より本日及び滞在中の日程の説明があり今日
はこれから湖北大学に行き歓迎会談と講演会、夜は歓迎宴会があるようだ。
できれば、ホテルに行って休みたいが、招聘された身としては任せるしかない。
湖北大学は武漢市武昌区に在り、1930年に創設された省属(公立)の4年制総合
大学。国際間での他大学とのつながりに重点を置き、日本を始め米、英、豪など
の100を超える大学および研究機関と情報交換・共同研究など行っている。
大学ランクとしては、常に中国10位以内の武漢大学に比べて下回るが、反面海外
から学ぼうとする態度は積極的のようだ。最も、今回も自分に話のある位だから、
きっと日本中いや世界中の環境企業や大学に声をかけているのだろう。
武昌区は長江の南(東岸・右岸)に位置し、武漢大学を始め他の多くの大学が在り
東湖や沙湖等の湖沼、黄鶴楼などの歴史遺産、湖北省政府等の国家機関も存在する
武漢市の政治と文化の中心地域である。空港から武昌区へは高速道路で40〜50分
程の距離で長江は武漢第二橋を渡るのが常道。第二橋は武漢大学を訪れた際にも何
度となく渡っているが、橋から眺める長江は相変わらずの大河で悠然と流れている。
行き交う船舶も多く中国の経済はまだまだ盛況であることが解る。ただ、水は相変
わらず濁り、汚いことにも変わりない。
湖北大学に到着すると、資源環境学院(学部)に案内され学院長との会談にて歓迎
の意や大学の紹介や湖北省の環境汚染現状の説明が行われ、環境改善技術の協力要
請を受ける。まあ、感謝の意や要請はお決まりとして、肝心なのは具体的な実行と
資金投資であり、それがなければ掛け声だけで終わる。それでも、熱心に語る姿を
見ると環境汚染の深刻さと、環境改善の事業化を図りたいことは伝わる。大学名の
入った記念品や中国土産まで貰ったが、こちらからは成田で買った東京バナナ1箱
では少なかったかなともちょっと反省。
会談が終わると、講演をするために会場へ案内される。事前に講演依頼はあったも
のの、学生相手に何を話せば良いのかと悩みもしたが、日本語で話すのだからいつ
も通りの話をするしかない。会場はちょっと大きめの講義室で既に200人位の学生
と先生方が待っていて、日本語学科の学生や日本よりの留学生も居るようで日本語
での挨拶も受ける。
講演では技術紹介と中国での活動状況、愛水運動などの参加募集を行った。公演後
の質疑応答では、日本語の話せる学生が通訳となり、熱心な質問と討議が行われ中
国学生の一生懸命さが伝わる。この気持ちを何時までも持ち続けて欲しいもの。
講演と質疑応答で2時間程、18時頃に講演会が終了。そろそろホテルにて休みたい
が、休む間もなく晩餐会場へ行くらしい。朝3時起床の強行軍でクラクラするが、
せっかくの歓迎会を断るわけにもいかない。日本からの訪問だからと、東湖沿岸の
高級料亭を予約しているらしく、行程も時間がかかり到着したときにはダウン寸前。
しかし、湖面上に設けられた席にて食すちょっと辛い湖南料理は美味く、食の進む
ほど、アルコールの回るほど調子を取り戻し久しぶりの中華料理を楽しんだ。
日本語の話せる学生1人と、日本からの留学生2人も参加して楽しい宴席であった。
留学生は横浜と新潟から来ていたが、中国に来て以来初めて本格的な豪華中華料理
を食べられ上機嫌、これから日中関係がどうなるかは解らないが、若者が交流する
ことは良いことだ。宴は盛り上がったが、それでも用意された白酒は丁重にお断り
して、早めに切り上げ、ホテルに戻り23時にチェックイン。
LCCの機内で多少ウトウトしたものの、休まった気はせず、本当に長い一日だった。
ホテルは、湖北大学から2〜3km離れたより愛家国際華城という住宅団地の入り口
にある。こぢんまりしたプチホテルという感で周りに繁華街などが無く静かで良い。
街路は一見オシャレにはできているが、遊歩道には洗濯物が干してあり、道端では
卓球に興じる人たちが居る、これが中国だ。
長い一日を書き出したら文章も長くなったので、今日はこれで一休み、続きは!?
]]>
早いもので11月も立冬を過ぎ、晩秋から初冬の様相となってきた。これといって
何をするでもなく時間だけが過ぎ去るが、この秋はしばらく途絶えていた中国渡
航する機会があったのでご報告。9月に山東省青島へ、そして今月初旬に湖北省
武漢へ行ったので、旅の記憶を書き留めるためにもブログ更新。
先週行った湖北省武漢は2011年4月に初めて訪問し2013年までに5回ほど訪問
している馴染みのある中国の古都である。当時の訪問は武漢大学水利水電学院と
の技術協力による実証事業が目的で、実証そのものは武漢東湖の水質浄化を成功
したと言えるが、その成果が良すぎたのか武漢企業が模造品製造を行ったため、
担当教授と揉めて関係が疎遠となり武漢訪問の機会もなくなっていた。
ところが今年の年初頃より、武漢の別の大学「湖北大学」教授より技術協力の要
請と業務提携の依頼のメールが届いた。その後多くのメール交換をし3月には業
務提携契約締結し、度重なる強い招聘を受けての今回の訪問へとなった。武漢は
夏は暑く冬は寒い気候変化は激しい内陸性の土地柄だが、この11月初旬は天候も
安定して日本と変わらぬ気候のため気晴らしも兼ねての観光気分での訪問だ。
今回の武漢行きで特筆することは、初めてLowCostCarrier(LCC)春秋航空を利用
したことだ。話題の格安航空にはいつかは乗ってみたいと思っても利用する機会
がなかった。いくら安くとも安いだけで乗り心地が悪く、発着時間も制限がある
ためあえて乗りたいとも思っていなかった。ところが、調べてみると武漢への直
行便があり発着時間も都合が良いことが解った。同じく武漢への直行便が就航し
ている全日空ANAと比べて時間的に都合が良くかつ安い。全日空の場合、往路は
夕刻発便で到着が深夜となり復路は早朝発便で朝が早い。日本では時間があるが
現地の時間が少ない。春秋航空ならば、往路日の午後と復路日の午前中が使えて、
現地滞在時間が長く、余裕を持って日程を組める。
そんな訳でLCCで武漢へ行くことになり、先ずは、初めてのLCC搭乗記をご報告。
成田空港は、LCC専用Terminalとして第3Terminal(3T)がある。3Tへは2T
を経由して行くが、初めての事なので余裕を持って早めに到着することにした。
2Tまではいつも通りで、2Tからは連絡バスあるいは歩いても15分で行ける。
2T到着階から外へ出て右に歩くと連絡バス乗り場があるが、ここは運動のため
歩いて行くことに、渡り廊下のような屋根付きの通路を行く。通路床には色分け
されて解りやすく迷うことなく行くことができる。格安国空に乗るのだから、動
く歩道や密閉された屋内空間を期待してはいけない。早足で10分程歩けばエスカ
レーターがあり右折すれば3T入り口だ。
自動ドアを入れば、直ぐにチェックインカウンターがある。ここも広々とした空
間を期待してはいけない。さしづめ中国の地方バスターミナルの様相だろうか。
春秋航空のカウンターは、入り口直近の一番手前にあり、便利と言えば便利だ。
乗客のほとんどが中国からの団体旅行客で、帰り便のようだ。個人客は少なく、
日本人はほとんど見当たらない。まるで、成田のチェックインカウンターから
中国だ。これも、日本の観光事業者が中国からの爆買い旅行客で潤っているこ
とを考えればしかたない。春秋航空は中国の航空会社であり、これも慣れるし
かない。ひょっとしたらこれが、これからの世界標準かも知れない。
個人で春秋航空で予約することもNetで簡単にできるが、初めてだといくつかの
問題もある。初めての人のために、参考までに注意事項をお教えしよう。
搭乗便を指定することは、武漢へは成田から週に3便だけなので自分の都合があ
えば問題なく指定できる。価格設定は、荷物の重さにより3種類あり、機内持ち
込み5kgだけならば最も安く片道1万円以下だ。仕事の場合、手ぶらともいかず
預け荷物と合わせて15Kgのクラスとした。今回は書類やカタログ等の紙類、着
替えや身のまわり品も必要最小限としたので問題はない。座席を指定すると料金
がかかる。狭く、賑やかな団体客に挟まれるのも嫌なので、前から2列目のちょ
っと広い席を指定した。しかし乗ってみれば、4列目以後は満席だが前指定席は
一人だけで貸切状態だ。
個人客も何人かは居るのだろうが、多くは狭い席で格安に徹しているのだろう。
注意しなければならないのは機内食だ。機内食もサイト予約できる。5時間近い
フライトで食事抜きもつらいので予約してみた。2種類の弁当があり各2300円
とちょっとLCCとしては高い。これも空料金と思い往復で異なる弁当を予約した。
しかし、乗ってみればこの弁当を頼んだのも一人だけだ。空弁はどんなに美味し
いかと思いきや、出てきた弁当は、一部まだ凍っていてお世辞にも美味くない。
復路も、違う弁当を楽しみにしていたが同じ弁当がでてきた。CAがしきりに謝
るが何事も経験で、愛想の良いCAには文句を言わない。ご安心あれ、機内では
800円の弁当、カップヌードル400円、缶ビール、缶チューハイ各500円等々販売
しているので必要により買えば良い。事前にこれらの機内情報も、Netにて案内
してもらいたいもの。知らないのはLCC初心者だけで、中国人は弁当持ち込みだ。
持ち込みが当たり前で、機内食を楽しみにするなど遊び心を持っては駄目なのだ。
それでも、LCCは基本情報があれば、フライトそのものには問題なく利用できる。
搭乗ゲートに飛行機が直結せずバスで行くことや、3TにLoungeがないことも、
LCCなのだから当たり前と思うしかない。そもそも、LCCに乗る人はLoungeの
存在を知らないようだ。
武漢空港国際線Terminal
ちょっと良いことと言えば、復路の武漢空港国際線TerminalはLCC専用ではない
ためFastclassLoungeにてビールと軽食が楽しめ、搭乗にはFastclass専用車にて
飛行機まで送ってくれ優先搭乗することができた。春秋航空機のクルーがパイロ
ットも含め全て日本人であったことも、ちょっと嬉しく安心した。
まあ、何事も経験として全日空の半額以下で往復でき、時間も有効に使えたのだ
から良しとして、機会があればLCC武漢便を利用しよう。
久々の武漢訪問記も到着する前にLCCの事だけで、長くなったのでここで一休み。
武漢は長江沿いの水の都、長江には上流の工業都市重慶等からの貨物船が行き交う。
武漢滞在記は次回(書けたら)とするのでお楽しみに!?
]]>
別宮とは、御正宮の「分宮」という意味で、御正宮についで尊いお宮のこと
皇大神宮(内宮)に10ヶ所、豊受大神宮(外宮)に4ヶ所の別宮がある。
外宮の全ての別宮|多賀宮|土宮|風宮|月夜見宮と、内宮の別宮|荒祭宮
|風日祈宮は、敷地内及び近くにあるので御正宮ご参拝の際に、参拝したが
内宮の他の別宮は伊勢市内及び周辺地に鎮座されているので、ちょっと足を
伸ばしてご参拝へ行くことに。
伊雑宮神田鳥居
●伊雑宮(いざわのみや)
先ずは、志摩市磯部町にご鎮座する伊雑宮に。伊雑宮は、天照大御神の御魂
をお祀りし「いぞうぐう」とも呼ばれ、古くから「遙宮とおのみや」として
崇敬を集め、地元の人々によって海の幸、山の幸の豊饒ほうじょうが祈られ
てきた。別宮14社のうち伊勢国外のものは伊雑宮(志摩国)のみで、10
社ある内宮別宮の中で荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ順位とされている。
伊雑宮鳥居
伊雑宮
神田を持つ唯一の別宮で、毎年6月24日に行われる御田植式はとても雅な
神事で「磯部の御神田(おみた)」の名で国の重要無形民俗文化財に登録さ
れ日本三大田植祭の一つとされている。
伊雑宮神田
農業・漁業をお祀りする別宮らしく、海の幸、山の幸には欠かせないお神酒
として、伊勢神宮の唯一の御料酒「白鷹」の他「沢の鶴」も奉献されている。
伊雑宮奉献酒
●月読宮(つきよみのみや)
伊勢市内に戻り、内宮からほど近い1.8kmの中村町にご鎮座する月読宮に。
宮域には同じ内宮別宮の、月読尊の魂を祭神とする月読荒御魂宮、伊弉諾尊
を祭神とする伊佐奈岐宮、伊弉冉尊を祭神とする伊佐奈弥宮の3社がある。
月読宮3/4宮(月読宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮)
右から月読荒御魂宮?、月読宮?、伊佐奈岐宮?、伊佐奈弥宮?の四別宮が
並んで鎮座し、参拝は月読宮→月読荒御魂宮→伊佐奈岐宮→伊佐奈弥宮の順
が正しい。並びと、参拝順が違うのでややこしいが、これも神の習わしです。
月読宮
月読荒御魂宮
伊佐奈岐宮
伊佐奈弥宮
月読宮のご祭神は月読尊で、天照大御神の弟神で外宮別宮月夜見宮のご祭神
と同じ、「月を読む」と記すとおり、月の満ち欠けを教え暦を司る神である。
最高神天照大神の弟神の月読尊が祭神であることから、内宮別宮としては天
照大神の魂を祭神とする荒祭宮に次ぐ順位で、内宮宮域外の別宮としては最
高位の別宮。神様の世界は、格式や序列のはっきりと定まった社会のようだ。
月読宮3/4宮(伊佐奈岐宮、月読宮、月読荒御魂宮)
●倭姫宮(やまとひめのみや)
月読宮より、少し市内に戻る内宮と外宮を結ぶ御幸道路の中ほどの倉田山に
鎮座する倭姫宮にご参拝。祭神は、日本神話で第11代垂仁天皇の第四皇女
と伝えられる倭姫命で、2代目の斎王として天照大御神に奉仕し、諸国を巡
幸したあと、伊勢の国に入り現在の地に神宮を創建した功神と云われている。
倭姫宮鳥居
別宮14宮の中で、創建が明確であるのは倭姫宮のみで1923年(大正12年)
11月5日に、ご鎮座されたという極めて新しいお宮。
倭姫宮
倭姫宮のある倉田山の西側には、緑のあざやか森林があり付近には伊勢神宮
の博物館である神宮徴古館・農業館、美術館、神宮文庫等がありこの辺りを
倭姫文化の森と言うようだ。これらの建物が立派なのにも驚くが、見物客が
少ないのにも驚く。伊勢神宮がこれだけ注目を浴び、内宮の駐車場は満車だ
というのに、これら施設はガラガラだ。まあ、折角だから一見の価値有り!
伊勢神宮を含め、これだけの施設を有し運営する神宮司庁という組織の実態
がどうなっているのか疑問ではあるが、これも神様の世界の話なのだろう??
神宮徴古館
これで、今回のお伊勢参りは終わり。まだ、別宮の度会郡大紀町に鎮座する
瀧原宮と瀧原並宮の2宮にはご参拝できなかったが、次の機会にすることに!
お伊勢参りが終われば、これからは観光の始まり!!伊勢志摩というように
伊勢神宮の周辺には観光地もたくさんあるので、ちょっと観光もしましょう!?
気が向いたら、つづく
内宮をお参りした後は、宇治橋から五十鈴川に沿って続くおよそ800mの
通りある土産物店・飲食店街おはらい町で、B級グルメも楽しみの一つだ。
伊勢うどん
先ずは小腹を満たすために「伊勢うどん」。たまり醤油をベースにした黒い
だしに極太の柔らか麺は、正に伊勢のB級グルメで美味い?まあ食べられる。
赤福餅
すっかり全国的に有名になった「赤福餅」やわらかい餅と甘すぎない餡の
組み合わせが美味い。赤福本店で提供される赤福餅は、やはりひと味違う。
白鷹酒造
伊勢神宮の御料酒として全国唯一の白鷹酒造、伊勢の大御神の御饌として
毎日外宮の御饌殿殿に供えられる。店先でも頂けるようだが今日はガマン!?
猿田彦神社
おはらい町を通り抜け、大通りを一寸歩くと見えてくるのが猿田彦神社だ。
猿田彦神社
日本神話に出てくる猿田彦大神とその子孫の大田命を祭神とした交通安全
方位除けの神社として信仰されている。境内には、天照大御神が、天岩窟
(あめのいわや)にこもられたときに神楽を踊り大御神を再び現したという
芸能の女神であり、日本最古の踊り子天宇受売命(あめのうずめのみこと)
を祭神とした佐瑠女神社もあり、日本の神話と歴史の深さを感じさせる。
佐瑠女神社
猿田彦神社の次は、猿田彦大神縁りの興玉神石(霊石)が、鎮まるという
二見興玉神社に参拝に、かつて伊勢神宮を参拝する人たちが身を清める場
所として、神宮参詣者たちの宿泊場所としても栄えた名勝二見浦にある。
夫婦岩
ここで有名なのは「夫婦岩」男岩は高さ9m女岩は高さ4mで、二つの岩を
結ぶ大注連縄で結ばれて縁結び・夫婦円満・交通安全などにご利益がある?
夫婦岩のかえる
二見興玉神社の鳥居
海を眺めた後は、山手へ向かい伊勢神宮内宮の奥の院と言われる金剛證寺
お伊勢参りで必ず訪れる場所、内宮南方朝熊山にある臨済宗南禅寺派寺院
平安時代825年に空海が真言密教道場として中興、室町時代には神仏習合
から伊勢神宮の鬼門を守る寺として伊勢信仰と結びつき、伊勢の最大の寺
「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」
伊勢市と鳥羽市を結ぶ山岳道路 伊勢志摩スカイライン の山頂付近にある。
金剛證寺
仁王門
総門から入り、石段を登ると山門(仁王門)が有り左右に怖そうな仁王様
境内に入れば、弘法大師が造った伝えられる蓮の花が美しく咲く連珠池が
あり、池の中頃に赤い太鼓橋が架けられ聖地と俗界との結界を表している
仁王様(左)
仁王様(右)
連珠池
御本尊の「福威智満虚空蔵大菩薩(ふくいちまんこくうぞうだいぼさつ)」
は、日本三大虚空蔵菩薩の第一位として広大無辺な福徳・威徳・智徳の三
徳を有する仏様である。本堂摩尼殿の前は、左右に牛と虎が寝そべり守る?。
本堂摩尼殿
牛
虎 寅
金剛證寺本堂
お伊勢参りというと、外宮と内宮だけと思われがちだが、周辺には多くの
神社仏閣が存在している。古くから、伊勢地方が日本の信仰の起源と解る。
とかく宗教心は薄れがちだが、困ったときの神頼みや冠婚葬祭には神仏は
欠かせなのだから、せめてお伊勢参りの際には、感謝と祈願をしたいもの。
そして、宗教に頼らずとも生きていける日本の地勢、豊かさに感謝したい!?
さて次は、別院へお参りに!!
]]>
お伊勢参り?より読む
外宮から内宮へは、バスが頻繁に運行している。外宮入り口前に待機して
いる内宮行きのバスに乗り込めば10分ほどで内宮入り口へ到着する。
バス料金は少し高い気もするが、これも神様へのお賽銭と思えば高くない。
到着するバス停は、内宮の入り口「宇治橋」前の広場の直ぐ近くにある。
宇治橋
バスを降り、内宮方面にちょっと歩けば、直ぐに宇治橋の鳥居が見えるか
らわかりやすい。因みに、旅の楽しみのおはらい町通りは、バス通りから
五十鈴川側に並行して通っている。先ずは、内宮へお参りすることとして、
宇治橋を渡る。内宮では右側通行なので、宇治橋も右側通行だ。外宮は、
左側通行だったが、これは御正宮の位置によるもので神様の通り道は中央
参拝者は外側の遠い方を歩くのが礼儀のようだ。
宇治橋を渡る
宇治橋を渡り、右に曲がると広い参道が続く。ここも右側を砂利を踏みし
め進んでいく。やがて、神苑広場や火除橋を過ぎると右手に手水舎がある。
内宮参道
手水舎で清めるのも良いが、少し進むと川に下る道があり、川沿いに五十
鈴川御手洗場がある。川岸に石床を造り五十鈴川の流水で手や口を清める。
御手洗場
川の水を口に含むのは、大丈夫かなとは思うが、ここは川の水も御神水で、
尊い清水なのだ。まあ、伊勢の山々から流れ出た水なのだから問題は無い。
なにより、御手洗場より眺める五十鈴川は川霧が立ち神秘感がましている。
五十鈴川は川霧
五十鈴川の御神水で手や口を清めた後は、いよいよ内宮御正宮へと向かう。
道は大きく左へ曲がり内宮神楽殿をすぎると、左側に御正宮が見えてくる。
内宮御正宮は、石段を登った上にある。ここも石段からは撮影禁止なので、
写真はしたから取ってお終い。さすがに、人が多いがこれもしかたがない。
内宮(皇大神宮)は、神路山、島路山の麓、五十鈴川のほとりに鎮座され、
皇室の御祖神であり日本人の大御祖神である天照大御神をお祀りしている。
現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集め、平安末期より全国に
広がった国家の守護神として崇める伊勢信仰の発信地でもある。
御正宮
まあ、日本人の古来よる持つ森羅万象に神が宿り、全てから恵みを受け神
に感謝するという神道の総元締めというわけだ。昨今、世界中で蔓延する
他を認めない宗教対立や、それを起源とするテロ、殺戮、戦争を思えば、
日本の宗教観はなんて穏やかなものだろうと、感謝するしかない。これも、
日本という恵まれた地勢によるもので、日本人となれたことを感謝しよう。
御稲御倉
外幣殿
御正宮を参拝した後は、内宮に属する十別宮のうち第一に位する「荒祭宮」
にお参りに。参道を少し戻り内宮側に曲がり進むと神田から収穫した抜穂
の御稲が納められ御稲御倉や外幣殿等がありやがて「荒祭宮」が姿を現す。
荒祭宮
ご祭神は、天照大御神の荒御魂。神様の御魂のおだやかな働きを「和御魂」
と申し上げるのに対し、荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂
の働きを「荒御魂」とたたえる。
風日祈宮橋より
参道を少し戻り、風日祈宮橋を渡って別宮「風日祈宮」へお参りに向かう。
風日祈宮橋は五十鈴川支流に架かる橋でこれも遷宮により掛け替えられた。
風日祈宮橋
風日祈宮のご祭神は、伊弉諾尊の御子神で特に風雨を司る神、級長津彦命、
級長戸辺命。雨風は農作物に大きな影響を与えるので神宮では古より正宮
に準じて丁重にお祭りしている。
風日祈宮
風日祈宮橋
参道に戻り、神楽殿脇を通り御厩から休憩所でもある参集殿方面へ向かう。
途中の右手には、神宮につきものの神池があるが、水質だけは神の力では
どうにもならないよう。まあ、神社の池は汚いのが日本の通説であり、そ
の神社の総元の池がこれならばと納得するしかない。しかし、鯉を飼う池
の水は透明度は高くキレイなもの、これは神の力なのか、ろ過装置の力な
のか神のみぞ知ること。
神池
鯉池
内宮のお参りも無事終え、再び宇治橋を渡り内宮を後にする。宇治橋は、
聖界と俗界との架け橋といわれ全長101.8mの純日本風木造反り橋。
宇治橋
宇治橋の外側と内側に立つ鳥居は、外宮・内宮それぞれの旧御正殿の棟持
柱が使われ、20年に一度の遷宮にて、橋は架け替えられ、鳥居は建て替
えられている。外宮・内宮・別宮そして鳥居、架け橋まで、木造により造
られ、建築にも関わる仕事柄(一応一級建築士)も感服するばかり。
おはらい町
これで、お伊勢参りの主用参りが終了し、近くの別宮や名所を巡ることに、
でもその前におはらい町で、一休み!?
それでは、腹ごしらえをした後は、猿田彦神社へ〜
お伊勢参り?へつづく
]]>
人生一度は行きたいお伊勢参り、江戸時代から庶民の夢であった伊勢神宮
へとお参りに。今年は、G7による「伊勢・志摩サミット」が5月26日
〜27日に隣接する志摩市賢島にて開催されたこともあり、一段と注目を
浴びた観光スポットとなった。
一度は訪れたことのある伊勢市だが、多くの観光番組でも紹介されNHK
ブラタモリでも紹介されたのでブラリ訪れてみることに。仕事のついでか
ついでに仕事かは定かではないが、言い訳を言いながらの伊勢志摩観光を
行ったことがない人、行ってみたい人のためにチョイとご紹介!?
伊勢神宮は、衣食住の神様を祀る外宮(豊受大神宮)、日本人の総氏神様
を祀る内宮(皇大神宮)があり、その他に御正宮の分宮として格式のある
別宮が14カ所、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社ある。
全てを回ることはできないが、御参拝順路としては、先ずは外宮から内宮
できる限り多くの別宮をお参りをすることに。
伊勢神宮の玄関口は「JR伊勢市駅」名古屋からは近鉄特急でも来ること
ができるが、新幹線の乗継ぎが便利なJR快速みえ3号で伊勢市駅に到着。
伊勢市駅を降りれば正面に大鳥居があり、外宮へと向かう広い参道がある。
さすが、お伊勢参りの入り口らしく、道の両側には伊勢名物の土産物屋や
食堂が連なっている。物見遊山でそぞろ歩けば、正面に外宮の杜が現れる。
信号を渡れば、もうそこは外宮、火除橋を渡り左手にある手水舎で手と口
を洗い清めてから参拝をする。左手に、勾玉の形をしているという勾玉池
があり、池畔には舞楽の舞台が常設され、中秋の名月の宵には神宮観月会
が行わる。花しょうぶもキレイに咲き誇り、雨のしずくが美しい。湖畔に
は20年一度行われる遷宮の資料を展示するせんぐう館もあるが、今回は
パスをしていざ外宮参拝。
勾玉池
表参道の入口に、先ずあるのが第一鳥居。伊勢神宮に来たときだけは鳥居
の下を通るときには、深々とお辞儀、敬礼をするのが日本人のたしなみ。
第一鳥居
続いてあるのが第二鳥居。鳥居をくぐり玉砂利を踏みしめてやさしい木漏
れ日のさす参道を歩けば自ずと清々しい気持ちになってくるから不思議だ。
両側には古木が立ち並び、いよいよ神様の元へ近づいている感がしてくる。
第二鳥居
右手に神楽殿があるが、通り過ぎ歩けば右手に御正宮の建物が見えてくる。
手前は、古殿地と呼ばれる遷宮にて、次に御正宮が建て替えられる場所だ。
御正宮
そして御正殿の正面へ立つ。内部は写真撮影禁止なので写真はここまで。
心を清め、衣食住の神様に感謝し、良きことがあることを願い参拝をする。
御正宮
御正殿参拝の次は、外宮内にある別院を回る。参道を少し戻り神池を過ぎ
右手には、外宮の土地の守り神である大土御祖神が祀られる別宮「土宮」。
土宮
さらに奥へ進めば外宮に所属する四別宮のうち、第一に位する「多賀宮」。
ご祭神は豊受大御神の荒御魂あらみたま。神様の御魂のおだやかな働きを
「和御魂にぎみたま」と申し上げるのに対して、荒々しく格別に顕著なご
神威をあらわされる御魂の働きを、「荒御魂」とたたえられる。
多賀宮
多賀宮をお参りして戻り、土宮に相対する位置に風の神である級長津彦命
と級長戸辺命をお祀りする別宮「風宮」がある。鎌倉時代の2度の元冦の
ときに神風を起こして日本を守ったとされる。
風宮
神楽殿手前から左へと進み北御門参道を行くと、御厩があり鳥居を潜り
火除橋を渡れば、外宮北御門から外部へ出られる。
北御門鳥居
外宮北御門から神路通を行くと、天照大御神の弟神で内宮別宮月夜見尊
をご祭神とする別院「月夜見宮」がある。月夜見宮は、月夜見尊と月夜
見尊荒御魂を一つの社殿に合わせてお祀りしていて、樹齢数百年の楠を
始め、たくさんの木々に囲まれた神域は、静かで穏やかな佇まいだ。
月夜見宮
再び神路通を外宮へもどり、神楽殿脇にある社務所にて御朱印を頂き、
外宮参拝は終了、バスにて内宮へ向かうことにする。
引き続いて内宮ご案内 お伊勢参り?
]]>